翼よ、あれがポロの火だ

先日、初台にある「シルクロード・タリムウイグルレストラン」に行った。

一足先に到着していた友人によると、その日はトヨサキさん御一行のパーティにより席が予約されているとのことで、私と友人は、おそらく普段は誰も座らないのであろう(※店員さんがめっちゃ荷物を片付けていた)カウンター席に通された。なるほど我々が食事をとっている最中に店は満席になったが、ついにどれがトヨサキご一行なのかは分からずじまいだった。なぜなら私が知ってるトヨサキは声優の豊崎愛生か書評家の豊崎由美だけだが、そのどちらもいなかったからである。

ウイグル料理だと、これは「ポロ」らしい。

ポポロクロイス物語

やっていることは中央アジアのプロフとほぼ同じだと思うが、レーズンの有無がレシピの違いだろうか。それとも単に店ごとの工夫の範疇だろうか。なんであれどっちもうまい。我々がよく知るピラフとも兄弟みたいなものだろう。プラハとは?関係なさそう。

これは高田馬場サマルカンドテラス」のウズベク料理、プロフ

最近読んだ『移民時代の異国飯』という本によると、東京にある本国人御用達のイラン料理屋では「パキスタン以東と違ってカレーばかりではなくなり、『ポロ』と呼ばれるピラフのような炊き込みご飯と『カバブ』と呼ばれるケバブもメニューの多くを占める」*1とのことで、このあたりの地域でグラデーションのように、同じ飯の呼び方が変わっていっているみたいだ。ただイランやアフガニスタンよりウイグルに近いタジキスタンキルギスなどの中央アジア諸国では「プロフ」呼びだと思うので、どこら辺が境界なのか、なにが決定因なのか、私には分からない。みんなも分からない。

先日『LAフードダイアリー』を読んで以来、「いろいろな国の珍しいものを食べたい!」という欲求について考えている。欲望の赴くままに、生きていくうえでこだわらなくていいことに際限なくこだわっているという意味では、そういった異文化への探求心も単なる浅ましさの発露でしかないのかもしれず、サイゼリヤ一本で毎日満足という人のほうがよほどストイックなのかもしれない。また、ロサンゼルスだの東京だのという世界的な大都市で多国籍な料理に舌鼓を打てるのは、当然移民(あるいは「技能実習生」という言葉も『移民時代の異国飯』には登場するが)というファクターが結びついているわけだが、「金で呼んで多彩な飯作らす」という構図がメキメキにブルジョア思想という感じで、「異文化理解」というお題目を同時に打ち出そうにもいかにも食い合わせが悪い。

ただ移民の方々からすれば、自分たちが食べたいもの作ってついでにそれを現地人にも出しているというだけの感覚かもしれないし、そういうポリティカルにコレクトなこと言ってないで店に来て飯食ってくれ、というのが本音なのかもしれないし、こういうめんどくさいこと考えてるやつが彼らのためになっているのかどうかは微妙なところである。

*1:山谷剛史『移民時代の異国飯』星海社、2022年、125頁