のっぽさん

先日のふざけた感想群と一緒にするのも気が引けたので別枠となったが、『戦闘と女の顔』はとてもよかった。

監督自身がインスパイアされていると言ってはいるものの、邦題はやり過ぎなほどアレクシエーヴィチの著作に寄せられていて、なんか紛らわしい。原題の『のっぽ(Дылда)』のほうがシンプルで私は好きである。好きだというだけでなく、主人公のイーヤが作中に登場する誰より大きな背丈を持っていてそれが映画の題になっているということは、起用した女優がたまたま背が高かったというわけではなく、彼女が戦後ロシア社会のピースとして「規格外」であるということ(女帰還兵、PTSD、同性愛的志向)を一目で表す象徴的な意味を持っていた気がするので、なんとか活かせなかったものかとは思う。まあ作中で何度もディルダディルダと言ってるから分かるっちゃ分かるのだが、ロシア映画に限らず、"Frozen"が『アナと雪の女王』になるみたいなことってありがちね。

ところで、アレクシエーヴィチという人は本当に優れた作家だと思うし、それはやはり彼女の文字通りの足腰のなせる業なのだろうけど、彼女の書くものを読んでいると、アレクシエーヴィチ「研究」というものが今後日本でどのように成り立っていくのかということが気になってくる。彼女の本は彼女が集めたすべての証言を生のままで載せているわけではなく、彼女が選別し、文章を整えて出しているはずなのだから、原理的にはそこに彼女の恣意性・思想的な偏りを指摘して批判するということはできるはずだ。しかし彼女の本はそのつぎはぎの継ぎ目が非常に周到に加工されていて、見えない。だから今のところの私の能力と知識では、彼女の作品を批判的に読むということが難しい。

一方で、アレクシエーヴィチに影響を受けた人びとの発言や創作物においては、アレクシエーヴィチ作品が保っていたバランスは(良くも悪くもと言うべきか)崩れていく。今回の『戦争と女の顔』や、あるいは以前読んだ『同志少女よ、敵を撃て』などでもそうだが、『戦争は女の顔をしていない』に強い影響を受けて創出される物語が、いつもシスターフッドの話、もっと言えば同性愛的な語りへと一様に回収されていくところが興味深い。『戦争は女の顔をしていない』は、少なくとも表面的にはシスターフッドや同性愛をテーマとして前面に押し出してはいないからである。

だからこそ、現代的でリベラルな観点からはそこに「抑圧」、語り残しを見出すのかもしれない。ロシアという文脈においては、他の多くの戦争映画において異性愛の成就こそが救済として描かれがちな傾向に対するアンチテーゼという意味合いも持つだろう。『戦争と女の顔』も『同志少女よ、敵を撃て』も主な作り手は男性であるが(たとえばほかにも最近では『偶然と想像』であったり『ガンパウダー・ミルクシェイク』であったりといったところも含め)シスターフッドみたいなものを男性作家が積極的に描きたがるというのは、そういうのが流行りなんだということを念頭においても面白い現象だ。女性同士の情愛にユートピア的な理想を読み込んでしまうのは男性的な癖なのかもしれないとは思う。それを「クィア」的な着眼点と見ることもできるだろうが、穢れなき女の園を外から愛でる「百合」的嗜好と見分けがつかないものにもなり得る。

まあさすがに『戦争と女の顔』を百合だと思って見る人はいないだろうが、こうした現代的な読み替えは、現代的だなと思うと同時に、アレクシエーヴィチの指揮する壮大な合唱曲に比すと単調だなという感想も持つ。思想的にはリベラリズムの独唱パートとして機能しているという言い方もできるかもしれない*1。もっとも現代ロシアにおいてそうした「リベラリズムの独唱」を披露することの危険性は想像以上であると思うので、そこは素直に感じ入るところである。最近になって、悪名高い同性愛プロパガンダ禁止法の対象を現在の青少年限定から全年齢に拡大しようという動きがロシアではあったらしい(さすがに与党は取り合わなかったという続報もあったが)ので、『戦争と女の顔』のような作品が今のロシアで撮られ上映されることの意味を深く考えねばならない。

上に掲げたテーマ的な批判はもちろん、映画にとってはごく一部でしかない脚本に対するもので*2、動きや音や色といったその他さまざまの要素が醸し出す映画の良さには触れていない。たとえば作中の「緑」と「赤」の鮮烈(かつ執拗)な対比については、私はあまり分析的に理屈をこねる準備がない。ちなみにイーヤを演じたヴィクトリヤ・ミロシニチェンコさんは、『LETO』『インフル病みのペトロフ家』などでおなじみ(馴染め!)キリル・セレブレンニコフの次回作『リモーノフ』にも起用されるとパンフレットに書いてあった。セレブレンニコフは政権に目をつけられ続けて現在はドイツかどっかで活動をしていたと思うし、『戦争と女の顔』の監督カンテミール・バラーゴフも「ロシアを去らなければならない」と述べているそうだが、そうした監督たちの作品に出演し続けるということは、「そちら」側に与するのだという大きな決意がいったことなのではないかと推察される。

ロシア文化というものに対する風当たりが強い昨今であるが、政府の公式見解や輿論とはかけ離れたところで圧倒的な(そしてときに映画自体の良さにはあまり寄与しない)パワーを振るってくる『インフル病みのペトロフ家』や『戦争と女の顔』や『DAU』みたいな映画が出てくるたび、私の頭は麻痺したようにそちらに吸い寄せられていってしまう。たとえば韓国映画の『ただ悪より救いたまえ』や『白頭山大噴火』や『モガディシュ』や『偽りの隣人』に、邦画からはまったく感じられない迫力を感じるのと同じように、ロシア映画からのみ感じる独特の圧というものがある。

*1:社会的な通念からは「家族」を構成し得ない人々がそれでも疑似的な家族として支え合おうともがく姿は、是枝監督の『万引き家族』や『ベイビー・ブローカー』とも呼応するか?

*2:一通り書き終えてから思いついたので注記に書き加えることにするが、イーヤと病院の院長がセックスをしているベッドにマーシャも同衾しているシーン、あれはマーガレット・アトウッドの『侍女の物語』を思い起こさせるシーンであった。そう考えると、イーヤとマーシャの間にある関係は単なる対等なシスターフッドどころではなくなるわけだが