あなたに駆け寄って、もうすぐ指が触れる

濱口竜介は「資本主義」や「ケア」や「対話」や「クィア」に真っ直ぐで眩しい。世界的映画監督を見つめると眩しいというのは本来、星がきれいだとか漬物がしょっぱいとかいうのと同程度に自然なことなのかもしれないが、最近じゃ星は街灯りで見えないし、漬物は甘くて保存が効かないものばかりだ。なんの話なのか?


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ここがタルコフスキーだどこが侯孝賢だあそこがソクーロフだとやっていけば固有名詞のストックが切れるまで続くのだろう。私はシネフィルではないのでどういう風にするとそういうのが最終的に適切な配置に収まるのかはよく分かっていない。二人の主人公が劇場を出て川辺のほうへと歩いていく間にゆっくりと日が暮れていく長回しのシーンや、途中で挟まれる劇中劇などが『親密さ』を思わせたが、それは単に私が濱口作品の中で『親密さ』が好きだからというだけだ。

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2022年に、濱口作品によく登場する「『傷つき/ケア』みたいな問題設定には正直あまり興味がな」いと書いていた。現時点でもそこに大きな変化はない(私の弱さは私のものなので)。映画に対してシネフィル的な興味もテーマ的な興味もないなら、私は一体何を彼の映画に見ているのか? 今回すこし理解できたような気がするのは、どの濱口作品にも一作品に一つは出てくる(ような気がする)、見ているとこっちがいたたまれなくなる(ぼろ切れほど使い古された言葉で言えば「共感性羞恥」を呼び起こす)ある種の性質を帯びたシーンは、別に観客を気づまりにさせてやろうという意地の悪さから挿入されているのではなく、単に監督がものすごく真剣に映画によって何か物事を好転させようとしていて、時に空回りしたりもするが、とはいえそれはあまりに真剣であるがゆえにその真剣さを私が真正面から受け止められていないことでそう思えるだけで、悪いのは作品そのものではなく卑小な私のほうなのではないか、まあそういったようなこと。

大学を卒業後、商業映画の助監督になって、学生時代に多くの時間を費やした映画や音楽の経験が、撮影現場の実務においては一切、役に立たないことに気づかずにはいられなかった。時に尻を蹴られつつ「映画や音楽は自分を助けてくれない」という事実に絶望的な気分にもなった。自分が大事だと思い、何なら人生の時間を捧げたものが、自分を一切助けてくれないことは、心の底から苦しい体験でもあった。

それから時間を重ね、今はどちらかと言えば全く逆のことを確信している。映画や音楽は人が生きることを助ける。最良のそれらは常に、人が真摯に生きたことの証拠であるからだ。記録機械であるカメラ(やマイク)はその事実を確かに記録して、何度でも再生する。疑いようのない証を見て、聞いたことが、受け取った者の基底において生きることを励ます。確信を持ってそう言えるのは、それが僕自身において起きたことだからだ。

 

(濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること:映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、8頁。)

2015年に出た『カメラの前で演じること』という本の冒頭には、代表作『ハッピーアワー』の撮影に際して濱口監督が考えていたこと、実際に取り組んだことの説明を通じた映画論・制作論が収録されているが、そこに監督が演じることと「恥」の関係について語っている箇所がある。東日本大震災の直後に被災地に入りドキュメンタリーを制作することになった監督は、東北記録映画第三作目『うたうひと』の出演者となる民話の語り部=聞き手の小野和子氏から受け取った「恥は自分自身を吟味するもの」*1という命題について考え始める。ここで展開される議論の肝をうまく抽出できる気がしないので細かい内容については実際に本を読んでいただくとして、この「恥」論を読んで感じたのは、ふだん我々が映画や演劇やアニメを通して頻繁に見聞きすることになる大袈裟で誇張された演技、まさに演技といったら〈あれ〉と名指されるような泣き、笑い、怒り、叫びその他の感情に満ちた身体の操作、〈あれ〉は実は、観客に対するある種の配慮と思いやりに満ちたものなのではないかということだ。あの類いの演技は、その演技が誇張であること、フィクションであること、嘘であることを十全に観客に示し、劇場の外という「現実」への出口を目配せによって示しながら、演技が描き出すのは偽物の社会であり偽物の現実なのだから、ここからなにかを本当の社会、本当の現実に持って帰る責務なんてないんですよ(まあ、持って帰りたければ止めはしませんけど、無理なさらず)といって観客をもてなし、免責してくれている。要するに、観客が必要以上にフィクションから影響を受けて現実社会で恥をかかないように、前もって演者たちが恥を捨て恥知らずになりそれによって恥をかいてくれている。

濱口はそれを許容しない。演者を道化として扱わない。人一人に元から自然に備わる量の適切な恥の観念を保持しカメラの前で演じることを時にためらう一人の人間として扱い続ける。そういう人々の演技はややもすると素人臭く見え、だから時として観客に恥じらいを覚えさせるのだが、その感覚は、演者がスクリーンの表面に塗りたくられた光と音の混ぜ物、映画館の外で外気と太陽光に晒されればたちまち掻き消えてしまう幻などではなく、実際に生きている人間なのだと避けようなく突きつけられている証拠にほかならない。そこで我々観客は、映画館の外に出ても、あるいはテレビやパソコンの画面を消しても、現実社会にひとつやふたつ映画から受け取ったものを持ち帰り、持ち続けることを要求される。人と接するというのはそういうことだからだ。『急に具合が悪くなる』のテーマの一つである「社会の内と外の区別をなくすこと」はここから帰結するだろう。

自分はずっと、塊(?)としての濱口作品それ自体には魅力を感じてきた一方、そこに登場するオープンダイアローグ的な対話シーンや、身体接触や自己開示を伴うワークショップなどのシーンに、何とはなしの「イタさ」、はっきり言ってしまうとカルトじみた雰囲気を感じ、どこか乗り切れないできた。上に述べたようにその乗り切れなさは解消されてはいないのだが、今では少なくともその異和の出処は理解している。私はあまり本気で変容したくない。要は、政治思想の右左とはまた別のところで根っこが保守的なのだ。

『急に具合が悪くなる』から打ち寄せる善意の波濤、さすがに劇中のあらゆることが登場人物たちの善意によってうまく回りすぎなのではないかという感覚は、濱口と関係の深い三宅唱の『夜明けのすべて』を見た時に感じた感覚に近かった(そして『夜明けのすべて』は正直あまりしっくりこない)。しかし『急に具合が悪くなる』の場合、「それでもいいだろう?」という圧に押し負かされた感じがあった。二人の女性主人公については言うまでもないこととして、清宮吾朗を演じる長塚京三、ベテラン看護師ソフィーを演じるマリー・ビュネルの演技、これが素晴らしかった。星は昏く、漬物は腐る世界で、「善さ」を描くこと。

映画見た帰りに飲んだ

そういえば先日『シンプル・アクシデント/偶然』も見た。序盤、私がイラン情勢に不案内ということもあって何をやってるのかが微妙に分からず、軽くウトゥ・トゥ・ウトゥしてしまったが、終盤は強く引き込まれた。巧みに「悪意」を描く優れた映画だった。


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*1:濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること:映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、50頁。

老後の生活設計によって破壊された母方の実家、さえも

今の日本に失われてしまった豊かさがここにはある。女子大生役の桃井かおりとか。

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破壊され今はもう新しく建て替えられたかつての母の実家には当然、かつて母が暮らしたであろう部屋が存在したが、そこの本棚に並んでいた数十冊の本は建て替えのときどこかへ行ってしまって今では思い出すよすがもない。ただ一冊だけ、なぜか『もう頬づえはつかない』という書名だけは小さいころ祖父母を訪ねその部屋で寝るたびに見て覚えていて、覚えているからには買うことができるのではないか(なぜなら知識とは可能性だから)と思い当たって最近買った。正確には、つい最近買ったと思い込んでいたけどAmazonの履歴を見るにどうやら買ったのは2022年3月らしい。残酷だ!

作家の1978年のデビュー作である本作は当時ずいぶんと売れたそうだが、現在は古書でしか手に入らない。これもまた時間の残酷さである。2026年にわざわざこれを古本で探して読み、次いで映画を見、としている人間はどれくらいいるだろう。漫画『バーナード嬢曰く。』に、一昔前の流行りの本を敢えて流行が落ち着いてから読むのが趣味の遠藤くんという男の子が『恋空』を読んで感動するエピソードがあるが、それと似たようなことをしてみると、なるほど確かな効用が感じられる。もっとも『もう頬づえはつかない』は一昔どころか半世紀前のベストセラーだが。

施川ユウキ『バーナード嬢曰く。①』一迅社、2013年、41頁。

映画のほうはディスクも普通に手に入るし配信もされているので手軽に見られる。原作と比べるといくつも変わっている点があるが、映画では主人公のまり子=桃井かおりを振り回す「風来坊」の恒雄が橋本くんに「全共闘のお兄さん」とはっきり呼ばれていて、妊娠した主人公に投げかける言葉の酷薄さもより強化されているように見え、本作が前の世代の(口ばかり達者で無責任な)左翼に対する懐疑、「シラケ」を描いた作品なんだということがより明確にされている気がした。

見延典子は早稲田大学出身で、文学部での経験を基に卒業制作として書いた本作を『早稲田文学』に載せ一躍時代の寵児となった。こうして見ると『頬づえ』は早稲田という磁場無くしては生まれ得なかった生粋の〈早稲田印〉文学であり、映画でも当時の早稲田大学がロケ地としてふんだんに映し出されている(鮎川信夫の話を持ち出して桃井かおりの気を引こうとし撃沈するモブの男子学生が登場するが、仮に桃井かおりが同期にいようものならそれはその時点で人生の終わりの鐘が打ち鳴らされているに等しい)。物語で起こっていることと言えばほぼ、これも高田馬場を舞台にしたかぐや姫1973年のヒット曲「神田川」(作詞者の喜多条忠が早大出身)の世界で、それに女性視点の返歌を送ってみているようなものだ。このころ「優秀ではあるが授業にろくすっぽ参加せずアルバイトや酒、セックス、政治活動に明け暮れる都会の大学生」という、無軌道であると同時に(あるがゆえに、と言うべきか)理想的な若者のステレオタイプを描こうと思えば早稲田、高田馬場というのが一つの相場だったのかもしれない。今ならどこになるのだろう、『街の上で』の下北沢とかだろうか。恒雄を演じる若き日の森本レオは、今現在下北をうろつくバンドマンだよと言っても通りそうな優男感があって、要するにすごく女を殴りそうな見た目をしている。

たまたま暇に任せて『頬づえ』を読んだあと、村上春樹の『夏帆』を読んでいたのだが、ふと、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』が1979年だから、まさに同時期に二人は作家として登場したんだということに気づいた(たぶん誰でも知っていることだとは思う)。かたや絶版で手に入らず、かたや世界的作家のデビュー作として今も増刷が重ねられる両作を分かつものは何なのか考えてみるが、これはもう単純に前者が時代に即し過ぎていたというただそれだけのことだろう。見延とデビュー時期を同じくし、早稲田という同じ場所にいたはずの村上だから、時代の要請に沿ったものを書こうと思えばそういった「神田川」的浪花節(「神田川」的浪花節って何?)をいくらでも書くことができただろうし、実際『ノルウェイの森』ではそれに近いものを書いて人気をさらった。だけど『ノルウェイの森』は村上春樹最大のヒット作であると同時に、彼に投げかけられる大半の罵倒の根拠ともなっている。「時代に即し過ぎる」というのはそういうことだ。村上春樹は早稲田という、そこで収獲できる若者の生活を自動的に〈見られる絵〉にしてしまう恵まれた狩場から距離的にも比喩的にも離れたところで作品を物したことで、単なる流行作家としてだけではない生命を獲得できたのではないか、そんな気もする。最新作の舞台である武蔵境は彼に(というか彼の作品の登場人物に)言わせれば「文明の果つるところ」だそうで、中央線沿線の武蔵境がそうなら日本の地方都市なんてアロマノカリスの泳ぐ古生代の海にしか見えていないんじゃないかという惧れも抱くが、ともあれ放っておいても絵になる「1970年代早稲田」的な安逸からそうして少しだけ(あくまでも少しだけ)軸足をずらして書き続けたことに、現在まで続く彼のテーマ性があるのだ。時代は武蔵野か。

もちろんこれは、見延/神田川/村上という、筋の悪すぎる三題噺に基づく結論であって、そもそもこの二人だけを抽出して比べる必要はない。たまたま近い時期に読んだことで発生した他愛のない連想ゲームだ。ここで見延はいっときの流行の波間に消えた作家ということになってしまったが、今ではすっかり歴史小説に鞍替えして活躍継続中らしい。正直まったく知らなかったが、見延の場合、「今」のみに淫することのない作家生命を獲得するために、場所ではなく時代をずらす必要があったということなのかもしれない。かつて「女子大生の愛と性」を書いて50万部売った作家が落ち着き場所を変えて生き永らえる、ここには残酷さのかけらもない。

村上春樹は、2013年の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読んで以来、新作を追いかけることはやめてしまっていたけど、今回の作品は昔住んでいたあたりが舞台ということで久しぶりに手に取ってみた。3月ごろに東京を通った際、たまたま秋葉原のブックオフで拾って再読した短編「午後の最後の芝生」が心に響いて思い出した、ということもある。『夏帆』を読んでの感想は、今の武蔵境にそんなに寂れた商店街ないだろ、ということだ。すきっぷ通り、「中華そば専門 田中そば店」できたんだぞ。中華そば田中があるところが文明の果つるところなわけないだろ。

午後の最後の芝生

午後の最後の芝生

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汚れながら泳ぐ生の中で

長時間の移動の最中に長い時間があったので短時間で『ベラルーシ獄中留学記』を読んだ。

著者がこうした状況に陥った経緯は「迂闊」の一言に尽きる。捕まるまでに、あらゆる二択で間違った選択肢を選び続けているように見える。ただ、著者に対する非難や嘲笑の類は、著者がベラルーシで投獄されたという噂が出回り始めた頃から本書の出版に至るまでの時期にSNS上で一通り出尽くしたようだし、国外で緊急事態に直面したとして適切な対応ができる自信が私にはないので、重ねて言うことは特にない。起こったこと自体は大変不憫だと思うから、定価で入手した本書の印税がカンパ替わり、ということにさせてもらいたい。一点、「周りに迷惑をかけたのに再発防止策が講じられていない」という趣旨の批判があったらしいが、そんなもの「ベラルーシでの撮り鉄行為を慎む」か「ルカシェンコ政権を打倒してベラルーシを民主化する」か、二つに一つであって、前者は既に書いてあるようなものだし、後者は一朝一夕にどうこうなる問題ではない。批判にも気の利いたものとそうでないものがあると各々が自覚し、日々修練に励むべきである(呪泉郷で)。

本書を一読して感じたのは、なんだか変な形で収容所文学の系譜に連なる作品が現代に現れたな、ということだ。

「シベリア抑留」というものが身近だった時代が日本には確かにあった。当事者はもちろんのこと、自分の家族がそれを体験したという人も山ほどいた。また戦後日本の文芸界において、石原吉郎、内村剛介、高杉一郎といった面々による収容所体験に基づく語りが一定の地位を確保していた事実もあったはずで、直接は無関係という人にもそうした言葉が届く可能性は確保されていた。

さすがに近年では当事者たちの声がほとんど聞こえてこなくなったこともあって、一般に抑留体験が広く語られることは少なくなってきているように思う。であればこそ、2022年に公開された『ラーゲリより愛を込めて』(原作は1989年の辺見じゅん『収容所から来た遺書』)はちょっとした驚きだった。旧嵐(旧嵐!?)の二宮氏、北川氏、小岩井農場で牛乳を噴出した安田氏を始めとする豪華出演陣を揃え、人気バンドが主題歌を歌い、テレビ放送もされたということで、若者含む広範な視聴者のもとに届いたらしい。


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『ベラルーシ獄中留学記』を読んでソ連に抑留された捕虜たちの存在に思い至ったのは、著者がロシア語の勉強のために何とか手に入れたA4用紙を大切に使い、手荷物検査で見つからないように折りたたんで隠しているうちにぼろぼろになってしまうとか、差し入れのノートに日本語で日記を書いていたら見回りの人間に没収され叱責されてしまうとかいったエピソードがあったからだ。『ラーゲリより愛を込めて』にも、山本幡男が家族への手紙をしたためそれを必死になってソ連兵から隠すが、最終的には没収されるというシーンがあったと記憶している。後者は映画の描写なので丸のまま現実と受けるのは危ういかもしれないが、21世紀になって、日本人が同じ国(方角がだいぶ違うが、ギリギリソ連同士)で同じような経験をすることになるなんて、と印象に残った。

一緒にすんな、という声も挙がるだろう。無論一緒ではない。時代が違う、スケールが違う、罪状が違う(というか『留学記』のほうは取り調べに伴う拘留という名目なのだろうが)、エトセトラエトセトラ……。『ラーゲリより愛を込めて』がお茶の間の涙を誘う一方で『ベラルーシ獄中留学記』が嘲り混じりの好奇心しか呼び覚まさないとすれば、後者が自業自得だから、というその一点に尽きるかもしれない。しかし、そもそもなぜ『ラーゲリ』の冒頭のシーンで山本やその家族が満州のレストランでのんびり飯を食っているのか、という点について立ち止まって考えてみれば、元々そこに暮らしていた人たちにとっては、本来いるべきでない場所にのこのこ乗り込んできた日本人がソ連軍に苦しめられるくらいなんでもない、「自業自得」だという思いもあったはずだ。他方、照井氏は明確に誰かを傷つけたとか故意に害をなしたとかいうわけではない。この場合、何が「自業自得」で何がそうでないのか、誰がどこから判断しているのだろう?

本書には、著者と同じ日に恩赦によって釈放された人たちの中にベラルーシの反体制活動を主導する立場にあった活動家のチハノフスキー(妻のチハノフスカヤは夫に代わり大統領選に出馬、のち亡命)が含まれていたという記述がある。こことここが同じ扱いなのか、と知ったときの何とも言えない不気味さ。日本では何ということのない趣味である撮り鉄が、「反体制デモ」や「殺人」や「不法入国」や「徴兵逃れ」と並べられ、そこにある重みも思想も決意も個性もごちゃ混ぜのまま牢屋につながれ、そしていきなり釈放されるという不条理。生活を一歩踏み外した先にカフカの『審判』の世界が開けていること。


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上に、収容所経験に関する語りが「なんだか変な形で」戻ってきたと書いたのは、かの国で起こっていることの深刻さに対して、投獄に至るきっかけやそれをつづる文章の軽さが釣り合っていないなあという率直な感想があるからだが、むしろそうした「軽さ」がなんのバッファもなく「深刻さ」と接していることこそが、事態を真に深刻たらしめているのだとすれば。私が見聞きして知っている限りのソ連的な不条理が、ウクライナ戦争を契機として、またベラルーシの場合2020-21年の反政府デモを契機として再び頭をもたげており、そこに日本人も巻き込まれる可能性が十二分にあるのだな、ということをまざまざと見せつける本ではあった。ベラルーシではソ連時代の秘密警察「КГБ(カーゲーベー)」と同じ名称の機関が今も活動中であり、頭をもたげたというより、ずっとこっちを見ていたのかもしれない。

『ベラルーシ獄中留学記』の著者に対して向けられた非難のなかに、今回の体験について出版しないよう父親に厳命されていたのに本にした、家族にどれだけ迷惑をかけるのか、というものがあったのを見かけた(著者の家庭環境が複雑なものであることは本書につぶさに書いてあるので理解したが、公人でも著名人でもない他所のおうちの話なので、正直さして興味はない)。著者がここまで必死に獄中での体験を書き留め、あるいは記憶していったのは、もちろんやることがなくて暇を持て余したということが一番の理由になるのだろうが、しかし2024-25年の数か月間、ベラルーシの拘置所に「照井希衣」という人間が確かに存在し、そこで苦痛や不安を味わったのだという事実が、自らが書き残さないと永遠に無かったことになってしまうという焦りが本書を書かせたのだとしたら、それは親の命令などというものよりよっぽど大事なことだとは言える。酒を飲んで暴れる、情婦と心中する、風俗に通い詰める、文学の世界ではなんだって書いていいんだから、よその国で投獄されて親や外務省に迷惑をかけたことだって書いてはならないという法はないだろう。人がそれをどう読むか、そもそも読む人がいるのかどうかは二の次だ。

死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。*1

 

いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。*2

 

さらに私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずがない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そのひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。*3

 

(石原吉郎「確認されない死の中で―強制収容所における一人の死」より抜粋)

こうして並べて論じることで、『ベラルーシ獄中留学記』の著者の苦難や文才を上に挙げた文人らに比そうという意図はさらさらない。照井氏は零下40℃で強制労働させられたわけではないし、その他もろもろさすがにちょっとレベルが違うとは、無責任な読者の立場から思う。だけど問題は、そうした文人に比される文才がある人のみしか名前が残らない、ということ自体を石原は批判したのだということ、ソ連に抑留された日本人や朝鮮人の中にも、ベラルーシの反体制デモで投獄された市民の中にも、ウクライナ戦争で前線に送られるウクライナ人やロシア人やブリャート人やタタール人や北朝鮮人の中にも、そんな天賦を持つ人はほぼいないということだ。だからたとえば、徴兵逃れのためにベラルーシに不法入国し、ポーランドに強制的に送り出されようとしているウクライナ人青年ミーシャの話、ベラルーシと日本の二重国籍を持ち、反ルカシェンコ活動に従事した廉で逮捕され、著者と同日に釈放されてリトアニアに脱出しようとしているアキヒロ(仮名)の話、こういうあまり表立っては語られないであろう戦争や独裁のディティールを偶然にしろ本書が書き残したということには意味がある。勇気があったり意志が強かったり頭が良かったり文章が上手かったりする人ばかりが「名前」を持っているのではないのだから。

戦争をめぐって飛び交う言葉の一つ一つが人間から名前を剥奪していく、そういう時代が今ある(もっとも、朝鮮半島でもアルジェリアでもベトナムでもクウェートでもアフガニスタンでもタジキスタンでもコソボでもチェチェンでもイラクでもジョージアでも、「そういう時代」は常にすでにそこにずっとずっとずっとあった)。『ラーゲリより愛を込めて』主題歌の「soranji」に「この世が終わるその日に/明日の予定を立てよう」という歌詞がある。デモや戦場で命がけの現場に立つ人々にも、それがなければ本当はめいめい勝手な明日の予定があり得たはずで、その予定が高尚なものである必要はない。一日中「ぽこポケ」をやりたいとか好きな電車の写真を撮りたいとか「ヒットスタジオ」の戸川純が見たいとか、なんなら酒が飲みたいでもセックスがしたいでも、なんだっていいじゃんと思う。そういう人たちを肯定するのでなければ、戦争を否定したことにならない。

カザフスタンはアルマティの日本人抑留者墓地。石原吉郎も一時期「アルマ・アタ」に抑留されていた時期があるという。場所がよく分かっていなかったのだが、たまたま他の日本人グループに混ぜてもらって行くことができた。ここに埋葬される兵士たちもまた「無名」だ。

 

※※※※※※※※

冒頭に述べた「長時間の移動」でどこに行ったかというと、所用で福岡に行った。「所用」とは何か?知る由もない。博多では、マジで人間の導線上に「ラーメン」という要素がスムーズに組み込まれ過ぎていて、どこに行ってもラーメンを食べざること能わず、てなような具合であった。所用とはいったい何か?

*1:石原吉郎「確認されない死の中で―強制収容所における一人の死」『石原吉郎セレクション』(柴崎聰編)岩波現代文庫、2016年、4頁。

*2:同上。

*3:同上、12頁。

HOI -補遺-

先日の記事への補足。

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12. アレクセイ・フェドルチェンコ『神聖なる一族24人の娘たち』


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タタールスタン共和国の隣に位置するロシア連邦マリ・エル共和国の女性たちを描いたオムニバス形式の作品。これこそまさにロシアの地方農村部の様子を描いたものとして真っ先に紹介すべきだったかもしれない。なにせ見たのが10年近く前のことで頭から抜けていた。女たちの性への欲望が物語のテーマの一つで、予告編を見るだけでその猥雑とすら言える雰囲気は伝わってくる(年齢制限がかかっているのでブログの記事上では再生できない、YouTubeに行って見てください)のだが、最後、各話の主人公となった女性たちの顔が正面から映し出されるカットが連続で流れていくシーンで、なぜか涙してしまったのを今思い出した。

 

番外. アレクサンドル・コット『草原の実験』

『私の小さなお葬式』の監督として紹介したウラジーミル・コットだが、その双子の兄弟アレクサンドル・コットも映画監督で、カザフスタンでの核実験をテーマとした『草原の実験』という素晴らしい映画が日本でも公開されたことがある。


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劇中にはセリフやナレーションがなく、映画のテーマは、主人公の少女を巡る三角関係という表向きのストーリーを追っているうちに、画面に映り込む不穏な現実の切れ端を拾い集めていくことで徐々に明らかになっていく。だから本当に何の前提知識もないままこれを見た場合、結局何の話なのか分からずに終わるということはあり得る。

一見平穏に見える生活を描きながら、その外部で進行する押し止めようのない暴力や崩壊を暗示するという構成は、北野勇作や西島大介が2000年代前半に描いたSF作品を思わせるようなところがあると、ごくごく個人的に感じる。これ自体はさすがにロシアの地方を扱った映画とは言い難く、先日の記事中ではリストアップしなかったが、ソ連という国家がその周辺部に押し付けてきた負担の内実を静かに描き出すものになっているとは言えるだろう。

ちなみにフェドルチェンコやコット兄弟らは、2022年の開戦時に反戦の声をあげた芸術家たちのリストに名を連ねているし、『裁かれるは善人のみ』のズヴャーギンツェフが、先日のカンヌの授賞式でウクライナ戦争を批判したこともニュースになった。反権力作家を集めたリストを作ったつもりは特になかったが、敢えてロシアの中心部から外れた場所に目を向け、「国家」という巨大な存在の一体性に批判を加えようという人たちに共通するエートスのようなものはあるかもしれない。

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モスクワだけがロシアじゃない

モスクワだけがロシアじゃない?「オレンジだけが果物じゃない」みたいなこと言うね。粋だね(?)。

モスクワだけがロシアじゃない。ペテルブルクだけがロシアじゃない。言うまでもないことだ。では仮にそれらの巨大都市が現代の「ポチョムキン村」なのだとして、その書き割りの背後でいったい何が蠢いているのか。魔法使いを僭称するみすぼらしい老人?あるいはもっと別の切実な何か?

「モスクワだけを見てもロシアは語れない」という言葉それ自体が真実だとしても、それをSNS上での際限ないディベートで論敵を一瞬黙らせるためだけに放つのであれば虚しい。そうでなく、ロシアの地方に目を向けることが、眼前の政治的問題の解決になんらかの形で資すると本気で考えているのであれば、今は便利な時代なので、実際に現地に赴かずとも(それは大変だ)お手軽にロシアの地方都市や小村の現実を垣間見ることが可能である。お手元のスマホやパソコンを開けば、あるいは近くの書店や図書館に足を延ばせば、すぐそこにロシアの「地方」がある。

 

1. ウラジーミル・コット『私の小さなお葬式』

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今のロシア人が、「都市」と「地方(田舎)」の格差や断絶について何を感じているのかを手っ取り早く知りたければ、本作を見てみるのがいいだろう。DVDも配信もあるのでアクセスしやすい。都会に出ていって経済的に成功(マルチ商法でだが)した唯一の家族である息子と徐々に距離ができ、自分の葬式を自分で手配するという「終活」を始める女性の物語。原題は「凍傷の(解凍してダメになった)鯉」という不思議なものだが、鯉は実際作中で重要なモチーフとして機能している。撮影場所はレニングラード州ラドガ湖沿いにあるシャシストロイという村らしい。

 

2. ロマン・センチン「よそ者」(松下隆志訳、『現代ロシア文学入門』所収)

『私の小さなお葬式』はたしかに貧困や薬物などの暗い側面も扱ってはいるのだが、そうは言っても物語の都合上、だいぶハートウォーミングな田舎の描き方をしている。一方シベリア・トゥヴァ共和国の首都クズルに生まれた作家センチンが書く「地方」にはとことん救いがない。もはや露悪的とすら言える。なのでこれがロシアの真実だと言い切るのもまた逆に無理のあることかもしれないが、本人は大まじめに書いている。そもそも作家として非常に評価の高い人なので、普通に小説としておもしろい。短編1作しか訳されていないのが残念だ。

 

3. アンドレイ・ズヴャーギンツェフ『裁かれるは善人のみ(原題「リヴァイアサン」)』


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つい先ごろカンヌで賞を取ったロシア人監督ズヴャーギンツェフの作品。こちらもかなり激しめにヤバめな漁港の町(撮影場所はムールマンスク州テリベルカ)の様子を描いている。もっともズヴャーギンツェフ作品にはかなりの程度、聖書由来の宗教的テーマ(本作であれば『ヨブ記』)が盛り込まれているので、これを地方のリアルとそのまま受け取ることにはやや注意が必要かもしれない。なに、配信されてない? TSUTAYAに行け!!!

news.yahoo.co.jp

 

4. ユホ・クオスマネン『コンパートメントNo.6』


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これはフィンランド人監督による作品。主人公のフィンランド人女性が北極圏のムールマンスクに向かう傷心の道中で出会う肉体労働者(演じるのはアメリカ映画『アノーラ』にも出演したロシア人俳優ユーリイ・ボリソフ)の、粗野ながら愛情深い人間性に心を解きほぐされるというストーリー。良くも悪くもステレオタイプな「ロシア的善性」が描き出されているが、2021年制作で2023年日本公開だったので、ウクライナ戦争開戦と相まってやや微妙な受け取られ方をしたと記憶している。ラストシーンが爽快。

mochigome.hatenablog.jp

 

5. ワシーリイ・アフチェンコ『右ハンドル』(河尾基訳)

こちらは極東ウラジオストクが舞台の小説。日本海側の各県とロシア極東部の交流が日本の中古車の取引を通して紡がれてきたというのはよく知られた話で、「右ハンドル」というのはもちろん日本車のこと。小説と銘打たれてはいるが、かなりの程度ドキュメンタリー風味である。地方都市の人間がモスクワに対して抱える屈託、しかしだからと言って即座に反体制として爆発できるわけでもないという事情、もろもろこみこみで伝わってくる。

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6. ウラジーミル・コズロフ『クナシリ』


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ここまでくるともはや「極東」という括りすら飛び越えてしまう勢いがある(日本の立場からしたら日本なわけだし)。ベラルーシ出身のフランス人監督が撮影した北方領土・国後島の日常。監督がロシア語話者なので取材はすべてロシア語で行われている。予告編の作りがずいぶんおどろおどろしい雰囲気を醸し、政治的に主張の強い内容を想起させるのだが、私はどちらかというとのんびりした映画だと感じた。退屈という評もあるが、特に何が起こるでもなく、池の泥に浸かりに行くおっさんとか謎の発明家おじさんとかが映し出されている点にむしろ好感を持つ。

 

7. アレクサンドラ・ボグチャルスカヤ『Exit The Matrix』

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私はこれをたまたまU-NEXTで発見したのだが、YouTubeにも公式動画がアップロードされている。どうやら日本のコンテストにクラスノダール大学の学生である作者が応募し受賞したもののようだ。20分だし無料だから見て。

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8. 櫻間瑛、中村瑞希、菱山湧人『タタールスタンファンブック』 

ロシア連邦がなぜ「連邦」であるのかを考えてみることは、現在のロシア情勢を考察するうえで非常に大事なことだろう。タタールスタン共和国の首都カザンには二度ほど行ったことがある。一度目に訪ねたときは、カザン大学で買った紺色のパーカーをその後しばらく着ていた。清潔で料理もおいしく、居心地のいい街。そして、歴史的には難しい土地だ。

 

9. デイヴィッド・フランス『チェチェンへようこそ』


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プーチンが、チェチェンの独立運動を強硬に抑え込むことで政治家としての名声を高めたというのは周知の事実だ。ではその後のチェチェン共和国がどうなっているか? ここで描かれているのもまた、ロシアの地方の非常に、非常に厳しい現実である。かなり暴力的なシーンも差し挟まれるので、興味があるという方もすこし心の調子を整えてからご覧いただいくのがいいだろう。

 

10. アグニヤ・ガルダノヴァ『クイーンダム』


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地方都市マガダンを舞台とする、これもまたロシア国内の性的少数者を取り巻く困難を描き出したドキュメンタリー。つい最近映画館での上映が終わったばかりなので残念ながらまだ配信やソフト化はされていないが、この映画については少し長めの評を書いたので、ひとまずそちらを参照されたい。

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11. イリヤ・ポボロツキー『グレース』


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移動式の(半ば違法の)映画館で各地を周り生計を立てる父娘の物語。ロシア連邦内のコーカサス地方を巡っているらしく、現地語を話す人々が登場する。これもまだ配信やソフト化はされていない。しかし、非常に優れた映画であるので心に留めておいていただけると良い。

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とりあえず思いつくままに11のコンテンツを挙げてみた。もちろんまだまだあるだろう。「モスクワだけを見てもロシアは語れない」という主張をあなたが押し出したいのだとして、その主張の根拠は何か? 上記の作品に一つも触れたことがないというのであれば、まずはどれか一つでも試しに読んで/見てみたうえで、それについて具体的にどう考えるかを取っ掛かりに自身の見解を披露してもらったほうが実りのある議論になるのではないか。「大都市/地方」「男/女」「犬/猫」「きのこ/たけのこ」といった大雑把な二分法で交わされる議論は、とかく抽象的で過熱しがちなものである。人々を熱狂に駆り立てるために行われていると言ってもいいぐらいだ。ディベートだけが議論じゃない。

 

※2026年5月28日、補遺を執筆。

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パリ、ニジマス

『クイーンダム』は非常に面白い映画だった、おすすめ。と言ったところで既に映画館での上映は終わりかけているから、今後DVDや配信などで見てもらうほかない。反論がないならそうしてもらうほかないが?


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ジェナ*1が見せるパフォーマンスのみならず、祖父母との間で交わされる愛情深くも怒りや諦めに満ちたやり取り、開戦を経てさらなる保守化へと突き進むロシア社会の内幕等々、見どころはたくさんある。そしてこの映画は、旧弊な社会との文字通り血を流しながらの衝突の果てに、若きジェナが不自由から自由へ、「東」から「西」へと脱出を果たすことで多くの人にとってのカタルシスを生む。

でも私にとってそれらはこの映画の肝ではなかったな、という気がする。私にとってのこの映画のハイライトは、過激な街頭パフォーマンスによって退学処分となりモスクワにいられなくなったジェナが、一度故郷のマガダンに戻って仕方なく働き始め、魚卵の加工をしているシーンだった。

映画中でジェナは幾度も移動を繰り返す。物語の始まりは彼の故郷、オホーツク海につき出した半島の根っこに位置する港町マガダン。

そこでドラァグクーンとしての活動を行うジェナは当初、海外に拠点を移す人もいるけど自分はロシアでやっていけるんだと自信を見せる。しかし予想通り、事はそううまくは運ばない。マガダンでは暴力を受けるし、その後学業のために引っ越した先のモスクワでも、直接的な暴力ではないものの、これはあなたのためでもあるんですよ、みんなの学びの場の秩序を乱さないで、というソフィスティケートされた物言い、手続き、法によって街頭や学校から排除されていく(モスクワでもジェナの仲間は暴力を受けるが)。結局のところロシアに彼の居場所はなく、遂にはウクライナ戦争開戦後、徴兵による自身の生命への決定的な危険(それは戦場での、ということももちろんあるだろうし、軍隊というホモソーシャルな空間での、ということもあるだろう)を予見し、フランスに亡命することになる。

ここにあるのはクィアな人々にとっての「パリ>モスクワ>マガダン」という構図だ。自国内で十分な身の安全が確保できないロシアのLGBTQ+の人々にとってこれは当然のことながら、ドキュメンタリーという創作物のプロットをどう組み立てるかという議論以前の、生存に関わる至極基礎的な懸念がもたらすものである。保守的な地方よりは都市部へ、ロシアの都市部よりは国外へという一連の流れは『クイーンダム』のプロデューサーが関わっている『チェチェンへようこそ』の筋書きと同じだ*2。現実がそれを要請する。育ての親である祖父母と二度と会えないかもしれないという悲しみを背負いながら自由を求めパリに出奔したジェナに観客は喝采を送る。そう、君は自由のために生きろと。


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付け加えれば、殴る殴られる、殺す殺されるの問題と同時に、ジェナのようなアーティストにとっては表現によって食っていける地域は非常に限られているという現実も迫っている。映画にはジェナがモスクワで一度モデルとしての才能を高く評価されるシーンが出てくる。これは本作に仄見える数少ない希望なわけだが、現実問題としてそうした光はロシア国内ではほとんど察知できないほどに押しひしがれてしまっている。Instagramを見るとジェナは現在フランスでアーティストとしての活動を続けている。食えてはいるのだろう。ここでも「パリ>モスクワ>マガダン」という構図は有効だ。

パリの安全な仮宿に落ち着いたジェナが、祖父母との電話を切って涙を流すラストシーンを見終え、他の観客たちが退場していく様子を自席から眺めながら、なおもっとも強く印象に刻まれていたのが、冒頭に言及した魚卵加工のシーンだった。マガダンの鮮魚加工工場というものが、ジェナがロシアに置いていくものすべての象徴のように思えたからだ。

どうしてこういった感想を抱くに至ったか。一つとして単なる偶然ではあるが、カザフスタンで『彼(彼女)はあなたじゃない』*3というコメディ映画を見て帰ってきたあとに『クイーンダム』を見た、ということがある。


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これは言ってしまえばカザフ版『君の名は。』だ(違うが)。お互いにうんざりして口喧嘩ばかりしていた夫婦がおり、あるとき神の差配で人格が入れ替わることになる。するとお互いが男/女として味わっている日々の苦労、努力を身に染みて感じ、最終的には夫婦円満に戻る、というものだ。まあ、愚にもつかないコメディではあるのだが、まずひとつ大事な見どころとして、主演がめちゃめちゃなだぎ武に似ているという点が挙げられる。

主演のヌルスルタン・ウセノフさん。いくらなんでも似過ぎている。https://www.instagram.com/p/BjkcStUBqmM/

ただ今回、なだぎ似の俳優より重要な点は、本作で妻が夫の苦労を知るきっかけとなるのが、羊や馬を解体し食肉として加工することの大変さを、夫の体に乗り移った妻が体験することによってだったというプロットである。カザフのコメディ映画『スチューデント父ちゃん』で、実の娘を喜ばせようと生肉(何肉だったんだろう)を足一本分大学寮に持ち込む父しかり、カザフスタンでは男性的美徳というものが分かちがたく「食肉」と結びついている。

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ここには、女性の側が普段キッチンに押し込められうんざりするほどさせられている家事の裏には、男の献身的な労働による生活資材の獲得という重要任務が隠されていたのだ……という、まるっきりフェミニズムを反転させたような主張がある。最近ツイッターで話題の、アメリカの保守系住民とバーベキュー文化との抜き差しならない関係に思いを馳せてもよいのかもしれないが、要するに「リベラル」がなんかごちゃごちゃ御託を垂れている間にも汗水たらしてお前らの生きる糧を作り出しているのは誰だ?という、保守層からの反論の型に適合する。これは言うまでもなく非常に保守的なジェンダー観に基づいた「気づき」を妻側にもたらす(仮にこの『彼(彼女)はあなたじゃない』をハリウッドやディズニーで作るとしたら、夫に乗り移った妻ががんばって屠畜を完遂し、今までの保守的な職業観を是正する、というプロットになるだろう)わけだが、「ろくでもないと思ってたやつでも、自分の生活に欠かせない仕事を果たしている場合がある」という意味ではその気づきに一片の真実が含まれていないわけではなく、争点はその「一片」の大きさをどの程度評価するかだ。

ジェナを慈しむがゆえに、彼(でしかないだろう、祖父母にとっては)の奇矯な(と言われることはジェナも織り込み済みだろう)振舞いにあるいは困惑し、あるいは怒る祖父母が常に心配しているのが、ジェナがどうやって食っていくのか、という問題である。祖父はジェナが名のあるファッション誌から取材を受けたにもかかわらず金銭的報酬を受け取っていないことの意味が全く理解できない。ジェナを工場で働かせたり軍隊に行かせようとするのは、上記のような「気づき」を促すためにほかならない。しかし当然のことながら、ジェナにそんな「気づき」が訪れることはない。二十歳そこそこのジェナは、言ってしまえばまだ親の愛情に甘えていてもいい年ごろだし、故郷に引っ込んで工場でバイトをしながら堅実な職を探すという選択肢は端から頭にない。ジェナは魚卵を加工する仕事を退屈で耐え切れないと忌み嫌っているし、観客もまさかジェナが「いろいろやんちゃしたけど、こういうのも悪くないな。よし、男らしくマガダンで身を固めよう」などと工場で働いているうちに思い直すはずはないと、ほとんど知ったうえで映画を見ている。

マガダンを「出ていくべき土地」として描き出すための漁業。実際魚を獲ってきて加工してという労働は体力的にもキツいだろうし、臭いや汚れだって相当なものなはずだ。こういった映画を好んで見に行くような私含む観客にとって「マガダンでイクラ」と「パリでアート」という二項は、後者が「善」過ぎて比較の対象にすらならない。決して国際映画祭には登場しないカザフの一山いくらのコメディ映画や、バーベキューを愛しヴィーガンやゲイやポリコレを蔑むアメリカの共和党支持者、そもそも映画にならないロシアの地方都市の労働者たちの現実(小田香『鉱 ARAGANE』みたいな映画が撮られてもいいのだが、それを誰かに撮れと要求できる筋合いは私のような人間にはない)は、ジェナが放つまばゆい光に照らされて闇に沈んでいく。


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そういうリベラルと保守、第3次産業と第1次産業、ホワイトカラーとブルーカラー、「西」と「東」の間に生じる摩擦、痛みとして「イクラの加工をするドラァグクイーン」という絵が私には知覚された。アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?それは女性だ。『彼(彼女)はあなたじゃない』の夫もその事実には気づく。一方で、モスクワのモデルたちがファッションショーの後の飲み会で食べるイクラを加工したのは誰か?それはマガダンの「遅れた」おっさんおばさんであるかもしれない、あくまでもひとつの可能性、ひとつの比喩としては。作中に流れている本来のメッセージからおそらく私は漂流を始め、私はこの「取り残された」人たちについて思いを馳せた。ジェナの祖父母やマガダンや、そこで稼働する鮮魚加工工場は、老いて滅んでいくしかないのだろうか?こうした映画が撮られ、日本含む「先進国」で評価され、東京のミニシアターで「意識の高い」人たち(私含む……!?)の喝采を浴び、というその事実からは、ジェナ、こっちへおいでよ、生臭い魚の臭いのしない世界へ、という親切な手招きと共に、リベラルで温かな抱擁と共に、「悲しいことではあるけど、まあ、滅んでも仕方ないだろうね」という声が感得される。

こういった映画を批判/批評的に扱うというのは、そこで扱われている現実の切実さから非常にためらわれる(アレクシエーヴィチの作品をcriticalに読もうとするときなどもそうした感覚に襲われる)ものだが、「これは批判ではないけど……」と言いながら実質批判でしかない言説を展開するのは良くない。ということで、以上は『クイーンダム』に対して批判的な文章である。ただこれはジェナの生き方や活動そのものへの批判「ではない」。こうした広義の「上京」物語が取り得る構造一般への批評である。カザフスタンの映画館で『彼(彼女)はあなたじゃない』を見て笑っていた女子たち、あれは羊の血や魚の粘液にまみれた臭い立つ野蛮なのだろうか?ロシアは言うまでもないことだが、「進んだ」欧米の国々だって、自分が気に入らない相手の頭をミサイルで殴りつけていることにおいてはむしろ率先して「野蛮」である。同じ野蛮同士なら、お前が消えて喜ぶ者の意見に敢えて耳を傾ける「後進国」など果たしてあるだろうか?

ジェナ本人は故郷に滅んでほしいとは露ほども考えていないだろう。周りの人間が自分を受け入れてくれるなら喜んでロシアにいたはずだ。しかし自身の望む生き方のためには、自分を養ってくれていたマガダンという町の価値に「気づかない」ふりをすることによって無理矢理にでも外へ出ていくほかない。『クイーンダム』という映画の良さは、単純な啓蒙主義への回帰に至り切れない、自分の故郷と地続きの主人公の苦しみを描いていたところにあると思っている。ちなみに、ドストエフスキーやトルストイといったロシア文学の文豪たちは、時折「悪」に対し過度に同情的だったり、無抵抗を強調しすぎて甘いと言われることもある。ただ私はそういう水で育ってしまった。私はできればパリに旅立ったジェナの背後に〈取り残された〉、マガダンで今日もイクラを加工し続ける〈遅れた〉人についても同時に考えていたい。私の根はそちらからもたしかに養分を受け取っていたはずの毎日なので。

 

※ニジマスがマガダンで獲れるかどうかは知りません。知らないったら知らない。

*1:インスタを見ると「ジェナ」はラテン文字で「JENNA」らしいが、本人はロシア語で「Гена(ゲーナ)』とも書いている。ジェナの本名は男性名「ゲンナージイ」だが、ロシアには男性名・女性名にかかわらず愛称形というものがあり、それはだいたい母音 "a" "я" で終わっているため女性名詞的な響きを帯びる。ゲンナージイの場合それは「ゲーナ」になる。チェブラーシカに出てくるワニのゲーナもこれ。

*2:『チェチェンへようこそ』の場合、実は最後にもうひとひねりがあるのだが。

*3:カザフ語に不案内なためよく分かっていない部分があるのだが、原題 "Ол сен емес" の "ол" が「彼」も「彼女」も表す単語らしい。もし間違っていたら連絡をください。私の電話番号は、2、です。

苦しいならば駱駝ではない

高速道路の渋滞を緩和する手段としての「ファスナー合流」というものがあるが、特段運転が上手でもなく、運転に快楽を見出しているでもない私のような人間にとっては、車の運転という行為は例外なくファスナー的に見える。つまり日本の路上において運転手に求められるのは、他の車との正しい関係を交通法規に従ってカチャカチャと規則正しく噛み合わせていくだけの機械的な役割に過ぎない。そうなるとハンドルも必要な時に必要な角度を動かすのみでよいし、むしろそうしなくてはいけない。そこに自身の創造性を発揮する余地は少ない。

ところがカザフスタンでタクシーに乗ると、そこで発生しているのはなにか別の現象のように感じられる。運転手がハンドルに置く手はなんだか赤ちゃんの首のようにふらふらしていて、視線は常に車と車との間に自身の車体をねじ込む隙間を探し求め、実際割り込み、あるいは追い越す。なんというか、車同士の関係が非常に有機的で、こんなとき私は、カザフ人たちは車を馬と勘違いし続けたまま今日に至っているんじゃないかという想像をたくましくする。

私を空港からホテルまで乗せたタクシー運転手は、客と政治的な話をするのが好きなんだと言って、ナザルバエフからトカエフに代替わりした現在のカザフ社会の希望について滔々と私に語った(「そうだね、きっと良くなるよ」と私は答えた)。私をホテルから美術館まで乗せたタクシー運転手は、中国が安い車をどんどん売りつけるから道路が車で溢れてこんなに渋滞しているんだと吐き捨てた(そのとき我々が乗っていたのは中国車だった。「あなた方の奔放過ぎる車線変更にも原因の一端があるのでは」とは私は言えなかった)。タクシー運転手との関係も、日本よりはだいぶ有機的だ。

おわかりいただけただろうか。これが俗流比較文化論である。

 

※※※※※※※※※

現地で遭遇した日本の知り合いから「ラクダは食べましたか」と聞かれる。もちろん食べていない。なので有名だというレストランの場所を教えてもらい、昼食を取りに赴く。いざラクダを食べるのだと決意して道を歩くと、町に溢れるラクダ表象がいやに目につき始め、私を責め立てるかのよう。

「SYDYK」というのが店の名だった。おそらく現地民的にはやや高級寄りのレストランで、お昼にはあまり客はいなかったが、隣接する売店にはお菓子や総菜を買い求める客がひっきりなしに訪れていた。

食べたのは店の名前を冠したサラダと、「クィルダック」という、中央アジアで広く食べられている肉じゃが的な煮込み料理。

ところで、カザフスタンのスーパーマーケットの乳製品売り場は日本に比べるとかなり充実しており、家畜たちと生きてきた年月の蓄積を感じさせるが、そこにはたいてい馬やラクダのミルクの発酵飲料も並んでいる。それらの味からすると、ラクダの肉も獣的なクセが強いのではないかと警戒していたのだが、結果的には拍子抜けするほどあっさりして柔らかくおいしい肉だった。牛とはどこか違う香りがある気もするが、おそらくほとんどの日本人は、牛肉料理ですよとサーブされても最初は気づかないのではないだろうか(実際サラダのほうに乗った肉は、切り方や甘めの味付けのせいでかなりプルコギ感があった)。

正直なことを言えば、一口でラクダだと分かるような、ひとこぶかふたこぶか夢に出てくるような、そんな過激な特徴を求めていた自分はいた。一方で、国外の観光客の口にまるで合わない変わった風味では商売として成り立たないだろうし、それは創業者シディク・アブオヴィチ・ダウレトフの望むところではない(誰)。なにより料理としてすごくおいしかったので、なにも不満はない。ひょっとするとカザフスタンのすこし田舎のほうであるとか、または他国に行けばもっと野趣溢れるラクダ肉にありつくことができるのかもしれず、今後の課題とさせていただければと考えております。

ちなみにこういった中央アジア料理専門店にはお酒が置かれていないことが多く、この店にもアルコール飲料はなかった。お昼なので別にいいやと思って代わりにお茶を飲んでいたわけだが、料理をおおかた平らげたあとに残りの茶を飲みながらあらためてメニューを眺めていたところ、「ラクダのミルク 200ml」があることに気づく。これは上述の馬やラクダのミルクの発酵飲料「クムィス」「シュバト」とはまた別のものらしい。

気になって店員に、これは生のラクダのミルクなんですかと尋ねたところ、生ではなく粉ミルクで、発酵はしていないという返答だった。ともあれ注文して飲んでみる。

クセ、あらず!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!11

!!!!!!!!!!!!!

甘くて、おいしいね!!!!!!!!!!!!!!!!!??!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

帰りがけに売店を見たら、なるほどお土産用粉ラクダミルクの缶が並んでいた。諸事情により購入は見送ったが、これからSYDYKを訪れるあなた、そう、そこのあなた、あなたは買う運命(さだめ)にあります。ラクダの神様がクセのない御心でそうお決めになりましたので。

息子のかなしみはさっき昆布茶を飲んだ

「ブエラーク」というバンドを知った。ノボシビルスク出身のA・チェレパーノフ(左。ボーカル、ベース)とA・マケーエフ(右。ギター)の二人組で、活動拠点もノボシビルスクらしい。「ブエラーク(буерак)」(もしくはバイラーク "байрак")というのは、下の写真のような緑の窪地を指すチュルク語系の言葉だそうだ。

https://ru.wikipedia.org/wiki/%D0%91%D0%B0%D0%B9%D1%80%D0%B0%D0%BA

Apple music で音楽の広大な海に漕ぎ出し、のほほんと漂うクラゲたちを水中銃で貫いているうちにたまたま見つけた。そんなにたくさん聞けてはいないけど、とりあえず『プロレタリアート』というEPがいい。表題曲もいいが、「スポーツグラス」という曲がいい。

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見た感じ僕はとてもみすぼらしくて不潔な御仁
顔中傷だらけ、腕は罪を犯しがち
だけどほらつい最近友達が僕にくれたんだ
誕生日プレゼントのスポーツグラス
今じゃいつも僕は華やかで暗い
人に僕の犯罪者みたいな顔は見えない


スポーツグラス、優雅なシルエット
細いフレーム、かければ僕はディスコ愛好者
スポーツグラス、優雅なシルエット
細いフレーム、かければ僕はディスコ愛好者
スポーツグラス、優雅なシルエット
細いフレーム、かければ僕はディスコ愛好者
僕のスポーツグラス

ブエラークはソ連時代から続く「新しい波」の流れを汲むバンドらしいが、ソ連時代から続いてたら新しくもなんともないだろと思いつつ、いや、打ち寄せる波は常に更新されていくものなのか。私にはパンクロックがどうとかポストパンクがどうとか、そういった区別はさっぱりわからない。私にとって音は「漢」かそうでないか、その違いしかない。ベラルーシの 「マルチャット・ダマー (ロシア語で "Молчат дома" は「家々は黙っている」という意味。不思議なバンド名やね)」に雰囲気が似ている気もするが、セガサターンとプレイステーションが似ているという意味でしか似ていないのかもしれないから、ホントは全然似ていないのかもしれない。

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ボーカルのチェレパーノフはゲーム好きとしても有名らしく、とあるインタビューでは『サイレントヒルⅡ』や『龍が如く』などのゲーム音楽から影響を受けているとも語っている*1。そうして普段から日本文化に親しんでいるからなのか、ブエラークの好きな本紹介には安倍公房や三島由紀夫が出てくるし*2、2023年のアルバムリリース時のプロモーションビデオにも日本語が登場している。

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音楽と言えば、Shortparisのコミャーギンが亡くなった。それは悲しい。

 

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プロレタリアートと言えば、と言って話を切り出す人を警戒したほうがいいが、プロレタリアートと言えば中野重治だ(そうか?)。最近唐突に中野重治を読んでみたくなって、どうしてそう思ったのかきっかけはまったく忘れてしまったが、しかし岩波の詩集は品切れだ、古本でも微妙に手に入りづらい、参ったな、と家の本棚を眺めていたら、あった。過去の自分に感謝しなくてはならない。だが過去の自分に感謝するということは現在の自分に唾を吐きかけることだし、未来の自分を断頭台にかけることにほかならない、だからほどほどにしなくてはならない(そうかな?)。

中野の詩は素朴で、正直さほど気の利いたものではない。アジテーションを目的とする作品も多いからか、言いたいことを言っているだけで、あまり文章表現に重きを置いていない和製ロックの歌詞のような趣だ。「治安維持法というものがわからないと、その気持ちはわからない」*3(松田道雄)。そうなのかもしれない。でも悪くないのもある。

なんぼお前らが法律を変えてみたところで

町で拷問される男どもの声をわたしらに聞えさすまいと

なんぼ監獄の壁をあつあつと塗りあげたところで

それで おまえらが 秋の来るのを止められると思うているのかよ

秋の来るのを 秋の来るのを*4

(「夜刈りの思い出」より)

悪くないというのは「悪くない」という意味で、やっぱり詩としてすごく出来がいいとは言い難いと思うのだが、サイゼリヤのマルゲリータも、バジル乗ってなかったらマルゲリータじゃないじゃんと思いつつ、悪くないよと食べている。そういうことだ。

詩集の最後には中野が作詞した知らん学校の校歌も2つ収録されている。考えてみると「校歌」という制度も、かつて日本の遍く小中高、どんな階級の生徒にも音楽と詩心とを広めようとする試みだったのかもしれない。谷川俊太郎がやたらと校歌書きまくってるのとかも、そういうことなのかも。

ふるき ふるき国 越の高向

そこに生まれし

あたらしき人 あたらしき人 われら

われらつよし われらわかし

ここに学び ここに育つ

竜北 われらが母校*5

(「竜北中学校校歌」より)

 

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『きみの鳥はうたえる』は良く、『ケイコ、目を澄ませて』は良く、『夜明けのすべて』はピンとこなかったので、順番的には次は良い公算も悪い公算もあって怯えていたが、『旅と日々』は良かった。東北の人間は米や肉や魚や野菜や電力のみならず癒しまでも都会の人間に与えてやらないといけないのか、そういうもどかしさはある。あるいは、最後の展開はそんな「マジカル・ニグロ」ならぬ「マジカル東北」的呪いを解くためのものだったのか。


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*1:Интервью «Буерак»: «Иногда умней прикинуться глупее, чем ты есть» Фронтмен группы Артем Черепанов — о новом альбоме, трансгуманизме и ролевых моделях

https://bg.ru/bg/weekend/interview/30295-buerak

*2:Что читает «Буерак» https://books.yandex.ru/bookshelves/musVZwNG

*3:『中野重治詩集』岩波文庫、1978年、205頁

*4:同上、139頁

*5:同上、184頁

傷つけあった愛が始まらないように

ネットをうろうろしていてたまたま見つけたトビリシのソーセージ屋台の動画。1964年開業で、ソーセージとパンとビールとレモネードしか置いていないらしいが、やたらと美味そうだ。とりわけ店主がビールが注いでいる際の絵面が良く、その魂は永遠です。

youtu.be

2026年2月現在、日本には1800億の人民が暮らしているので、その中に1人くらいはこの店を尋ねたことがある人がいてもおかしくはない。私もいつか行ってみたいなと思う。ただ、2024年4月に現地在住のロシア語話者YouTuberおじさん(民族として何系なのかは明らかにされていないが、「ガーリク」というのがアルメニア人によくある名前なのではないかという情報は出てくる。確証はない)がこの店主に年齢を尋ねたところによると75(か76)歳らしいので、私が店にたどり着くまでのんびり待っていてくれるかどうかは分からない。時は残酷だからである。

youtu.be

この店は、紙ナプキンまでソ連時代の雰囲気そのままだ!ということでロシア人に「伝説のソーセージ屋台」として広まっているらしいのだが、上のYouTuberは、途中でジョージア語に切り替えてはいるが最初は当然のように店主にロシア語で話しかけ、店主も普通にロシア語で返している。The 帝国主義の残滓という感じであるが、ロシア語に冠詞はない。

youtu.be

誰か連れてってくれ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

https://mitropost.ru/sosiski-goryachaya-malenkaya-kolbasa/

 

金の麦穂で赤を撃て!

遅まきながら中井和夫ウクライナナショナリズム』を読んだ。これを読んでいない人は今後日本でウクライナの政治や文化について語ってはいけないという法律が本日付けで施行されたからである。あぶねー、ペラペラペラ(ウクライナについて語るときに発生する音)。

本書の出版は1998年で、収録されている文章はそれ以前にそれぞれ異なる時期に書かれた論文が元になっている(ソ連崩壊前に書かれたものと崩壊後に書かれたものが混じっており、章によってウクライナが独立していたりしていなかったりする)。2022年の再刊にあたっては、追記や修正は敢えて行われなかったようだ。

勉強にならない箇所はないので誰もが読んだらいいのであるが、であるがゆえに逆に興味を引いたのは、1930年代に発生した飢餓被害、いわゆる「ホロドモール」についての記述は薄いという点だ(全体で1ページにも満たない)。近年ウクライナナショナリズムを語るうえでこの飢餓被害の扱いはどんどんと大きくなっているように見えるので、当時としてはそういうものだったのだな、と思ったのである。「いわゆる」と但し書きをつけたのは、歴史学の分野ではこの政治色の強い用語を留保抜きで使うことに対する警戒感はまだ残っているらしいということで配慮をしたのだが、『ウクライナナショナリズム』にはそもそも「ホロドモール」というカタカナ語自体登場しない。1986年にR・コンクエストが執筆した『悲しみの収穫』には言及があるものの、この時期(1990年代)にはまだ、農業集団化による被害を民族主義の文脈に落とし込む議論ないし政治運動は緒についたばかりだったようだ。

ウクライナナショナリズム』を読み始めたのは、つい先日『苦い収穫(Bitter Harvest)』(2017)というド直球の愛国映画を見たからということもあった。こうした作品などはまさに現在ウクライナが官民挙げて取り組む「記憶の政治」ムーヴメントの一環に数えられるものだろう。ホロドモールは現在のウクライナとロシアの関係を語るうえでホットなトピックなので、折に触れてポーランドの映画監督A・ホランド『赤い闇』なんかを紹介することもあったのだが、当のウクライナ人だってこれを映画や何かにしているはずだよなと思い調べてみたところ、ウクライナ系カナダ人監督G・メンデラック(ウクライナ語的には「メンデリューク」)が制作したこの英語作品を見つけたのだった(1991年にウクライナで『飢餓33』という映画も作られているようだが、そちらはまだ見られていない)。

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日本では劇場公開されていないのになぜかWikipediaに立項されている。AppleTVでは見られるらしいが加入していないのでよく分からない。これは上述の『悲しみの収穫』にヒントを得たというアクション映画なのだが、何を隠そう、出来が悪い。だってほら、DVDのパッケージを見てください、まずこれがホロドモールを扱った映画に見えるでしょうか。

ja.wikipedia.org

物語はレーニンが死去した1924年に始まる。後継者となったスターリンは、ウクライナ人たちが農業集団化政策に従わないことを部下から聞かされると、レーニンの弱腰を非難し、「ウクライナには我々の意志に服従することを教え込むべき。ウクライナの鉱物資源と莫大な穀物の収穫なくしてロシアは立ち行かない」と述べ、農作物を根こそぎ徴発するよう指示を出す。これは人工的飢餓が単なる経済政策の失敗ではなく、スターリンウクライナ民族主義を警戒し、ウクライナ人に制裁を課す(≒殺す)ために農業政策を利用したといういわゆる「ウクライナ狙い撃ち」論に基づく描写だ*1。これと比較するとホランド『赤い闇』は、ウクライナでの飢餓被害がスターリンの経済政策の帰結であることが前提となって話が進んでいた(つまり「狙い撃ち」的議論を相対化している)と記憶しているのだが、どうだったかな。ちなみに本作のスターリン役の役者さんは、私がこれまで映画で見てきた様々なスターリンのなかでも最も似ていないと思わせる配役で、もはや似せようという努力すら感じられない投げやり感が伝わってくる。

さて、そうして主人公の少年が暮らす村に赤軍の兵士たちがやってきて、小麦などの生産物を徴発し、教会関係者を弾圧していく。主人公の祖父と父は誇り高いコサックで、彼らは銃を持つ赤軍の兵士たちに得意の馬術剣術で抵抗するのだが、父は赤軍兵士たちに捕まり殺されてしまう。

その後祖父のもとで成長した主人公は、いまだ赤軍による弾圧が続く村に愛するヒロインを残し、キーウの美術学校に入学する。雄々しきコサックの末裔ではありながら、絵を愛し戦いを好まぬ平和な男なのだ。しかし首都にも暗雲が立ち込め始める。はじめはヨーロッパから招かれたと思しき講師が自由なモダニズム表現を主人公に教えるのだが、その講師は解雇され、社会主義リアリズムの型にはまった表現が教育現場を侵食していく。主人公に先だってキーウに出ていた友人は、ウクライナ共産党の若きリーダーになっているが、ある日の集会でスターリンを批判し、ウクライナが文化的には「ダーウィンゲーテバイロンニュートン、そしてもちろんマルクス」を擁するヨーロッパとの共通性が多いと述べ、タラス・シェフチェンコの名前を挙げながらウクライナ人の自立を訴えたことで党上層部の不興を買い、最終的には自殺に追い込まれる。中井『ウクライナナショナリズム』には、ロシアの帝国主義からの脱却とウクライナ文化涵養の必要性を説き1933年に自殺したフヴィリョヴィーという作家が登場するのだが、主人公の友達もこのフヴィリョヴィーも名前が「ムィコラ」なので、前者が後者をモデルにしている可能性も0ではない、かもしれない。

その後、ムィコラを偲んで仲間たちと居酒屋で飲んでいるとき、ロシア人の軍人たちと争いになり、ウクライナ民族主義運動の一派と見なされた主人公は投獄される。銃殺刑寸前で幹部の気まぐれで命を救われた主人公は、その後その幹部の肖像画を描くふりをして隠し持ったナイフで殺害、銃を奪って脱獄し故郷の村目指してひた走る。その途中で反体制勢力と合流し、村を赤軍の魔の手から救い出し、父の復讐も果たすのであった。

芸術を愛する優しい男が自らの体に流れる戦闘民族の血に目覚め、自由を求めて闘う……やや『ドラゴンボール』の孫悟飯風味があり、それなりに熱い展開ではある。しかし、描写の一個一個が拙い。たとえば先ほどの友人ムィコラの演説にしても、21世紀のウクライナから1930年代にタイムスリップしてきたかのような人間が党の監視がいる前でこんな話をすれば、目を付けられて反体制活動がポシャるのは自明である。成功させようという気持ちがまったく感じられない(反体制活動を成功させたことがない私にダメ出しされても困るだろうが)。また、なぜか赤軍兵士たちは主人公の故郷の村にずっといて、敵ボスである将校は主人公の恋人を我が物にしようとエッチなドレスを着せたり一緒にご飯を食べたり毒キノコを盛られたり足を髪の毛で洗わせたりしているし、農民たちの反乱を抑え込むのにガトリングガンまで持ち出すし、暇なのか?という感想が浮かぶ。最後、その敵ボスを倒すのに用いる手段が、トラックで小屋に突っ込んで爆破するというもので、唐突過ぎるし、コサックの誇る馬術と剣術はどこに行ったんや、と思って笑ってしまった。

これを私の意地悪だと捉えないでほしい。実は本作はウクライナ本国でも非常に評価が低かったようで、あるウクライナ人批評家は、本作がホロドモールという歴史的に重要な悲劇を扱っているにもかかわらず、『ドラキュラ』じみた陳腐なホラー映画にしてしまったために歴史的な重みを削いでいる、という趣旨の批判をしている*2アメリカの映画批評サイト「Rotten Tomatoes」では、肯定的レビューの割合が60%以下だと「腐っている」、つまり低評価とされるところで、批評家の肯定的評価15%という数値をたたき出している(一般の観客からは67%)。

テーマがテーマだけに軽々しくイジるのもどうかとは思いつつ、出来だけで言えばまごうことなきB級映画と呼ばざるを得ない。ただ、私個人はこういう映画の作りに強い既視感を覚える。それはロシアの反ナチス映画(たとえば『ヒトラーと戦った22日間』や『ナチスバスターズ』)を見た時の感覚に近い。あるいはアメリカや日本の戦争映画でも、カザフのアクション映画でも中国の抗日映画についてでも言えることだが、過度に単純化された邪悪かつ滑稽な悪役を設定し、それをバッタバッタと気持ちよくなぎ倒していくという愛国映画はどこにでもあるもので、こういう映画にこそ、ある国が自国・自民族の美質をどこに見出しているのか、というアピールポイントが露骨に表出している。

mochigome.hatenablog.jp

本作で言えば、ウクライナには「自由・平和・文化・豊かさ・温かさ、明るさ(黄金色)」といったポジティブな特徴ががあてがわれており、一方のロシア側には「画一性・束縛・野蛮・寒さ、暗さ(灰色)」があてがわれていることが見て取れた。『ウクライナナショナリズム』では、19世紀のロシア史家コストマーロフ(母方がウクライナの家系。ちなみにこの人も名前がムィコラ)がロシア人とウクライナ人の気質について比較した文章が紹介されており、そこでは「ウクライナ人は自由、自治、民主主義、個人主義的特徴を持っており、ロシア人はこれに対して規律、組織、政府、集団的特徴を持っている。ウクライナ人は自由を好み、自由を求める魂に満ちているがロシア人は本来独裁を好み、国家を作る能力に恵まれている」*3となっている。そのため「土地の強制的な共同利用や連帯責任性はウクライナ人にとって最悪でもあり最も不当な奴隷的束縛である」*4のだそうだ。19世紀の時点で、ウクライナ人は農業集団化に向いていません、と言われている。ロシア人とウクライナ人だけ比較してもあんま意味ないだろ、という感想も湧かないではないが、19世紀の歴史家に文句を言っても詮無いか。要はこの映画は、少なくとも19世紀から受け継がれているウクライナ人とロシア人の国民性に関するステレオタイプをほとんどそのまま踏襲しているわけだ*5

『苦い収穫』は良くも悪くもウクライナナショナリズムの現在地点を分かりやすく示してくれる作品になっている。「コサック×ホロドモール」というテーマ設定が重要だ。上のコストマーロフの意見に限らず、近年のウクライナナショナリズムに関する言説を眺めていると、コサックの伝統を受け継ぐウクライナ人はとにかく権威を嫌い、自由を束縛されるのが嫌いな人々だ、という認識が自他ともに広がっている。しかしおそらく、そうした「自由」のみを基調とするウクライナナショナリズムには若干のもどかしさがつきまとうことになる。なぜならそのように自由に生きてきた結果が、長年にわたり国家を持てず、ロシア帝国ソ連(やポーランドオーストリア)に支配され、経済的にもロシアに劣後している状態を生んできたのであれば、その自由は単なる放恣でしかないのでは、という結論が導かれかねないからだ。

コストマーロフの上の比較も単にウクライナ人を褒めそやすためだけに行っているとは思われない。彼の評ではロシア人は「物質主義に傾きがち」*6ということになっているのだが、それはつまり、どんなにつまらんやつらだったとしてもコツコツ蓄財はして物質的な豊かさは獲得し、それを元手に国家を拡張してきたということだ。一方でコサックの自由とは、最悪国が無くても成り立ってしまうタイプの自由なので、民族としての優越性を説くのには役立っても、国家防衛戦を戦う現在のウクライナにとって必要不可欠な国家主義ナショナリズムとは実は食い合わせが悪い部分があるのではないかと思う。

自由であることと物質的な豊かさが両立しないものなのではないか、という不安は、たぶんほかの国にもある。たとえばカザフスタンの愛国的歴史映画『女王トミュリス』には、トミュリスが当時の大帝国であるアケメネス朝ペルシャとの戦争を決断する際、「草原の民である我々は、ペルシャ人みたいな立派な建物とかは作れてないし、商売もそんなに上手じゃないけど、その代わり誰よりも自由なんだよ」と(もうちょっと激しい言葉で)民に向けて演説する場面がある。この場面に私はカザフ人たちのそこはかとない自信の欠如、つまり、騎馬民族たる自分たちは自由ではあったけどその代わり目に見える形の富(でっかいお城とか、荘厳な寺院とか、いろいろ)を蓄積してはこられなかったのではないかという不安が無意識に表出しているように感じられた。コサックを一つの理想形とするウクライナナショナリズムもまさにそんな感じのジレンマを抱え込み得るのではないか。ウクライナの国民詩人たるシェフチェンコも、「死んだように横たわり、雑草が生い茂りカビに覆いつくされた」*719世紀ウクライナの「廃墟」の前で嘆かざるを得なかった。

「サムライマック」や「侍JAPAN」が跋扈する日本において、多くの日本人にとっての「サムライ」が血筋や歴史とは何の関係もない単なる「良いもの」のイメージでしかないように、いま多くのウクライナ人にとってコサックとは、刀と馬で戦うなんかかっこいい武人くらいのイメージでしかないかもしれない(今唐突に、昔リヴィウでマンガ風にデフォルメされたコサックがプリントされたTシャツを買ったことを思い出した)。そうなるとよほど緻密な歴史考証に基づいて彼らの歴史的功績を讃える歴史ドラマを作るのでもない限り、彼らを映画に登場させても、赤軍銃火器を前に暴れるくらいしかやらせることがない(インドの『RRR』くらい荒唐無稽ならそれはそれでいいが、そこまででもない)。では彼らの「自由」を何に奉仕させるべきか?彼らの強さは何を保守したらいいのか?ここで、ウクライナナショナリズムにとっての農業の重要性が浮かび上がってくる。そこでは外敵から守るべき「国土」という財産が物理的に存在することが前提とされているからである。

コサックはいわばウクライナの精神的な豊かさを象徴する存在と言い換えてもいいわけだが、しかし「武士は食わねど」的な価値観に居直ってしまうのでなければ、もうひとつ「資本主義・物質主義的な意味での豊かさ」を獲得せねば、ウクライナナショナリズムは万全なものにならない。ウクライナにとって「農」の問題が自身のナショナル・アイデンティティにとってかなり大きなウェイトを占めるようになってきているのは、そうした「コサック的自由=精神的豊かさ」を補完する「物質的豊かさ」のシンボルがほかならぬ農業であり、肥沃な国土だからだろう。『苦い収穫』の主人公が守るもの、それは「土地」および「女」だ。

近年喧しいボルシチ帰属論争においてウクライナ側から発せられる発言としてよく見かけるのが「ウクライナの土地は豊かなので甘くて栄養のあるビーツが採れた、それゆえボルシチが発展した。一方ロシアは寒くて土地も貧しいので、ロシアの伝統スープとしては『シー(シチー)』という薄いキャベツスープしかない」みたいな話である。「豊かな土地を持つウクライナロシア帝国ソ連)が植民地化し搾取し続けてきた」「ウクライナはロシア抜きで食っていけるが、ロシアはウクライナ抜きで食っていけない」というナラティヴ(『苦い収穫』のスターリンのセリフを思い起こそう)が、ウクライナのアグリカルチュラル・ナショナリズムとでも言うべきものの輪郭を強固にしている。『苦い収穫』でも、冒頭のシーンはウクライナの農村に住む人々が青い空と金色に輝く小麦畑(当然のことながらウクライナ国旗の配色を想起させる)を背景に笑っているというもので、まさに農業国としての豊かさが国家のアイデンティティなのだと自認*8していることが分かる。汗水たらして働いた末に育まれる、明るく輝く麦の穂は、何もせずとも勝手に地下から湧き出てくるロシアのどす黒い石油と対置され得るだろう。

というわけで本作では、ウクライナナショナリズムにとっての精神的基盤と物質的基盤を分け持つコサックと農業が、2ついいとこどりでガッツリ盛り込まれている。しかしあまりにも盛りが過剰で、「1+1で200だ!10倍だぞ10倍!」感は出てしまっている。まあ、そういう全部乗せの過剰さみたいなものが、ある種の愛国映画の味ではあるのだが。

コサックT

*1:これに対し、犠牲者の数としてはロシアのほうがひどかったという統計的視点からの反論、カザフスタンでの被害が無視されているという別角度からのナショナリズム的議論もあり、カザフスタンにおける飢餓被害については、『逃げろ』という映画が公開されている。

https://centralasia.jinsha.tsukuba.ac.jp/info/13761 またロシアの外務省は、スターリンの失政による被害を受けたのはロシア人もウクライナ人もカザフ人も同じであるにもかかわらず、飢餓被害をウクライナが自国の政治的主張のために独占しようとしていると批判している。

*2:すみません、ウクライナ語の記事をロシア語に自動翻訳して読みました。許してつかぁさい。

Гіркі жнива: почему картина о Голодоморе в Украине походит на легенду - Новости Украины - Афиша кино | Кино Обозреватель 23 февраля

*3:中井和夫ウクライナナショナリズム東京大学出版会、1998年、161頁。

*4:中井『ウクライナナショナリズム』162頁。

*5:とはいえこういう国民性に関する議論のようなものはある程度再帰性がある、つまり「実際そうであるかどうかは別として、言っているうちに言っている当人が影響されてだんだんそうなっていく」という現象もあるように思う。日本人がその本質としてきれい好きな民族かどうかはよく分からないが、そういう美点をアピールしているうちに外からの目を意識してゴミ拾いなどを始める人が増えて、後付けで「きれい好きな民族」になっていく、といったことである。

*6:中井『ウクライナナショナリズム』161頁。

*7:シェフチェンコ詩集』藤井悦子編訳、2022年、14頁。

*8:監督は国籍的にはカナダ人なので、厳密に言うと「他者」なのかもしれないが。ウクライナ系の移民2世らしいので、その点から言うとウクライナそのものから離れてイメージでしか語れなくなって、過度にウクライナを理想化しているという批判も可能かもしれない。

路面電車が行ってしまう!

ソ連期から活躍してきたロシアのアーティスト、E・ブラートフが11月9日に亡くなった。ご冥福をお祈りします。

手元に残っている写真のデータによると、2014年の9月16日、モスクワのマネージ広場にある展示場で開催されていたブラートフ展を訪れたようだ。

もちろん、当時すでに国際的に有名なアーティストだったからモスクワの中心部で大々的に展覧会をやっていたわけなのだが、何も知らなかった私は、なんだかおもしろいものを見たなあ、とその前日に食べたジャガイモのようにホクホクしていた。ブラートフの絵が印刷されたTシャツとエコバッグを買って帰った。シャツはXLしか残っていなくて、大きすぎるから誰かへのお土産にするつもりだったが、生地に伸縮性があって着心地が良かったので、結局自分のものにした。その後、着すぎてくたびれ、引っ越しのどさくさで親に処分されてしまった。あの時は悲しかったけど、Tシャツも路面電車も芸術家も、時が経てばどこかへ行ってしまうものだと今は理解している。エコバッグはまだたぶん実家にある。

「私の路面電車が行ってしまう」

その前日に食べたジャガイモ

「芸術が提起する根本的な問題、それは、なぜ人間なのか、ということです。 E・ブラートフ」

大衆の阿片

たとえば以前、『チェンソーマン』を読み出したのと同時期に理芽を重回転(ヘビーローテーション)で聞いていたせいで、今になっても私は「ピルグリム」の歌詞の

きみをどんどん好きになっていくのが
だんだん怖くなって

の部分を聞くたび、姫野先輩のことが思い出されてしょうがない。牛。


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同じように、昨年『負けヒロインが多すぎる!』を見ていた時期にパスピエの「Q.」をよく聞いていたので、

今日も愛されたいと口ずさむ君に

違う言葉をあげよう

の箇所は、このアニメ全体のテーマを歌っているような気がしてならない。


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もちろん、それぞれ曲を最後まで聞けば、結局はなんら関係の無いことが歌われていると嫌でも気づかざるを得ない。しかし、こういう「気がしてならない」こそがあなたの感情の火縄銃となって吹き荒れ、あなたの天下を清浄かつひとりよがりな幸福で満たしていくものだ。そこにポルトガル人の意図など介在する余地はない。作者がなんだ、手に入れた武器はお前がお前のためだけに使え。

※※※※※※※※

さて、そんなことはどうでもよくて、『チェンソーマン レゼ編』を見てきた。爆発。

今回映画館では『チェンソーマン』の上映前に実写版『秒速5センチメートル』の予告編が流れていた。この作品の実写化の当否自体はさておくとして、我々の世代にとっての「届かない恋」のシンボルがせいぜい篠原明里であり、そこにあったのが「転校=距離」という、小学生にとっては一大事でもお金と時間をかければ乗り越えられそうな障壁でしかなかったのに対し、現在の若者世代にとってのそれがレゼであり、そこに横たわる障害が「殺意」であるという対比を突きつけられてみると、いくらなんでも〈届かなさ〉のハードルが桁違いに上がり過ぎなのではないかと思った。そんな恋、あまりにも苛酷すぎる。

仮に20年前の私が『チェンソーマン レゼ編』を見ていたら、まともな恋愛などできない廃人にされていただろう。大人でよかった。ひと思いに殺してくれないなら、そんなものはもはや爆弾ではなく阿片だ。実は作者からしてそういう意図で作っている節があるみたいだが、そうやって作者の掌の上で心地よい苦しみに踊らされながら、いずれはそんなの知らない知らない知らないもんと乗り越えていけるものなのか。

ただ(そもそも公式に配られている入場者特典がそうだから仕方ないと言えば仕方ないのだが)、デンジとレゼが幸せなカップルになっている二次創作がSNSに溢れているのはいかがなものかと思っている。それは「乗り越え」とは呼べない。それは単なる嘘で、この物語が本来湛えている可能性、そこから汲みだし得る解釈の埒外にあるものなのではないか。デンジとレゼは何がどうあっても結ばれないという事実に向き合い、それを受け入れ、対決したうえでなければ、己の恋愛観は陶冶されていかないのではないか。「世界線」というアイデアが、自分を慰撫してくれる結末、自分の気に入る未来しか認めないという弱さの言い訳にしかなっていないのであればどうしようもない。「恋愛観を陶冶する」っていったい何なんだ。

ところで、劇中でレゼが歌っているロシア語の歌について、ウェブ上でいくつか日本語訳を見かける機会があり、ツイッターの以下の投稿は5年も前にかなりバズっていた。

下が、apple music で見ることのできる「ジェーンは教会に行った」(レゼ/CV: 上田麗奈)の歌詞だ。

День моего свидания с Джейн

Всё готово, утром мы пойдём вместе в церковь

Мы будем пить кофе и есть омлеты в кафе

После того как мы прогуляемся в парке, э-э

Мы пойдём в аквариум

И увидим любимых Джейн

Дельфинов и пингвинов

После обеда мы отдохнём, и так, что мы сделали утром

Мы будем говорить об этом

Пока не вспомним

Мы не вспомним

И ночью мы будем спать в церкви

本当に細かい、重箱の隅をつつくような話で恐縮なのだが、上のツイートは一箇所ロシア語の解釈を間違えていると思う。"Мы пойдем в аквариум и увидим любимых Джейн / дельфинов и пингвинов" のところだ(誤訳というのはどんなときだって「起こるもの」で私もしょっちゅう間違うし、指摘して悦に入りたいわけではない、ということは一応断っておきたい)。

これは2020年の投稿で、原作漫画のロシア語を見て訳しているのでそちらも参照すると、ここの歌詞は "Мы пойдем в аквариум и увиде любимых Джейн, дельфинов и пингвинов" となっている。"увиде" は明らかに誤植だとして、"Джейн" のあとにコンマが入っているのが違いか。

ツイッターで浸透している訳では、ここは「最愛なるジェーン、水族館に行って、イルカとペンギンを見よう」になっている。つまり "любимых" という形容詞が "Джейн" という名詞にかかっていると考えている。だけど「最愛なるジェーンさんよ!」という呼びかけとして訳したいなら、元の文は "любимая Джейн" でないとおかしいし、さらに前後の文章と切るため "любимых" の前にもコンマが入っていないとならない。アニメ版ではロシア語の監修や発音指導が入っているはずで、そこで歌詞が "любимая Джейн" に修正されていないということは、やはり "любимых" はそのままで正しいはずである。

まず正解は、

ぼくたちは水族館に行って、ジェーンの大好きなものたちを見る(≒に会う)、イルカとペンギンを

という訳だろう。要するに、この "любимых"(「愛されている」の複数対格)」は "дельфинов и пингвинов"(「イルカたちやペンギンたち」の複数対格)にかかっている、もしくは形容詞を名詞扱いする用法(細かい説明は省くが「愛されている者たち」と訳せる)で「イルカ」「ペンギン」と同格(実はこういうのを見分けるうえでコンマのあるなしはけっこう大事で、アニメ版の歌詞の方ではコンマは除かれているようだが、とりあえずどちらも言っていることはほぼ同じになる)。そうでなければ文法上の説明はつかない。ロシア語話者たちがロシア語でこの歌について論じているサイトで " Мы пойдем в аквариум и увидим наших любимцев, дельфинов и пингвинов."(「私たちは水族館に行って、私たちのお気に入りたち、イルカやペンギンを見る」) と書き直している人がおり、「私たちの」がどこから出てきたのかはよく分からないながら、そのように目的語として受け取るのが自然だと思う。

どうしてこういう誤解釈が起こっているかというと、「Джейн(ジェーン)」という、おそらく英米系の女性名が不変化名詞として扱われていることによるのではないか。変化させていない、ということは歌詞の最初の行で "День моего свидания с Джейн" と書かれていることから分かる。これは最初に習うロシア語のルールからすると "с Джейном" という形になっているほうが普通な気がするのだが、実は「硬子音で終わる女性の名前については変化しないものとして扱う」というルールがロシア語にはあり*1、「н(エヌ)」で終わる「Джейн(ジェーン)」が変化しないことはおかしなことではない(たとえばアメリカの女優ジェーン・フォンダ Джейн Фонда に関するロシア語の記述を見てみるといい)。"любимых Джейн" のところがもし、「любимых Джейна(ジェーンの好きなものたちを)」あるいは「любимых Джейном(ジェーンによって好かれているものたちを)」という形になってくれていれば意味は一意に確定するのだが、名前が不変化なので文法上の取り違えが起こりやすくなっていた、ということだろう。

ru.wikipedia.org

実は数年前の時点で上記の誤訳について指摘しているブログがあり、そこでの対案は「水族館へ行ってジェーンの好きなイルカとペンギンを見よう」となっている。こっちがより正解に近いはずだ。ただこの記事では、"любимых" が「複数生格」という文法上の形であると述べられているが、これは厳密には複数「対格」と解釈すべきところである。文法解釈に若干あやふやなところがあってこんがらがっているようで、「『愛しのジェーン』と呼びかけているという解釈も捨てきれないかも」と言ってしまっているが、そこは捨てきっていいと思う。

cut-elimination.hatenablog.com

もう一点、おそらく機械翻訳を根拠に「愛するジェーン、イルカ、そしてペンギンを見に行く」と訳しているパターンも散見された。つまり「ジェーン」を「イルカ」や「ペンギン」と並列させ、「見る」という動詞の目的語として扱うという解釈だ。それも無理をすれば成り立たないではないかもしれないが、この点については主語が「私たち」、つまりジェーンも含まれているものなのに「ジェーンを見に行く」というのはおかしい(水族館に魚ではなく一緒にいる女の子を見るために行くというのは、歌っている「私」単体が言うならまだ分かるが)。

というわけで、見に行くものは「ジェーンが好きだと言ってた生物ども、たとえばイルカやペンギン」で確定だろう。どっとはれ。

※※※※※※※※

ちなみに富山市には「アルビス」というスーパーマーケットが何店舗かあり、そこの店内放送では、声優の上田麗奈が「富山県出身の上田麗奈です!」と言って、富山弁で交通安全の啓蒙アナウンスをしている。これからはあれがレゼになる。そういう見方もできる。俺と一緒に逃げよう。


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*1:これについては中村泰朗「ロシア語における不変化名詞について」を参照した。リンクから読める。創価大学・創価女子短期大学学術機関リポジトリ

選挙もねえ、変化もねえ

※9月7日追記:「選挙」と訳したвыборですが、単数形なので普通に「選択(肢)」などと訳したほうがよかったかもしれません。民主的な選挙がまともに行われていない、ということも含めての「選択」なんだとは思いますが、なんにせよ失礼しました。

 

先週たまたま流れてきたニュースを見て、誰だろうと思って。思うのは勝手じゃないですか。そんなわけで少し調べてみました!

E・ミリコフスキー(1991~)はドネツク生まれのウクライナ人で、バンド「ネルヴィ」のボーカル。「神経」とか「精神」とか「気分」とか、そんなような意味である。ロシア語話者で、元々はモスクワでカフェを経営しつつ音楽活動に従事していたようだ。

ただ2022年の開戦時には、ドンバス地方でのロシア語話者への弾圧という、プーチン政権による開戦のエクスキューズを現地出身者という立場から否定し、明確にロシアに批判的な立場を取った。SNS上でロシア人から多くの差別的なコメントを受けたこともありジョージアに引っ越し、2025年にはウクライナ語での歌も発表したようだ。

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そうした政治的な動向はいったん置いておくと、2021年に発表された"Так как надо"という曲のMVがちょっと面白かった。筋骨隆々の貧乏画家がファイトクラブみたいなところに出入りするようになり、そこで稼いだ金で画材を買ったりしてたら、妻だか恋人だかに浮気されて鬱憤を晴らすようにのめり込み、元締めのギャングの意向に沿わずに暴れまくっているうちに……というよく分からないものである。なんで画家の腕っぷしが強い必要があるのか。曲はそれなりに良い。

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"Так как надо"というのは、直訳すれば「そうである必要があるように」「そうあるべきであるように」というぐらいのものだが、歌詞を見るとなんのことか分かる。

もし僕が横断歩道で轢かれるなら
それは僕が人を信じすぎているということ
そしてもし僕の歌が流行らないとしたら
それは僕が正しく書けているということ
もし君が夜に泣かなくなったなら
それは僕が君に朝電話していなかったということ
僕がもう、僕らの過去を分刻みで掘り返しながら
君に電話しなくなっているということ

しかしそんなのはおかしい、他人を信頼しているなら安全に暮らせているべきだし、上手に歌が作れたなら売れていてほしいし、あなたに対して誠実に振舞うことであなたに振り向いてほしい、「光が氷を貫いたり、空から雹が降ってくるように」、ごく自然に、あるがままに、物事が物事のあるべき姿のままに運んでくれればいいのに、という歌である。ただまあ、これがどうしてムキムキの画家の映像になって出力されるのかは、今もってよく分からない。

さて一方のV・コトリャロフ(1987~)は、ロシアのパンクロックバンド「ポルノフィリムィ」のボーカル。これはもちろん「ポルノ映画」という意味だが、メンバーは全員菜食主義者、歌詞はストレートな政治批判と、かなりまっすぐにリベラルなバンドのようだ。「悲しい人たちのためのロシア」だとこうである。

なあ、笑顔とか明るさは
顔から片付けろよ
あんた随分幸せそうだな
ここではそういうのダメなんだよ、坊主

 

正しく考えろ、正しく感じろ
墓場の心、牢屋の精神で
これがロシア、悲しい人たちのためのロシア
選挙もない、変化もない
選挙もない、変化もない
ここには!

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映像は2020年のペテルブルクでのライブの様子を収めたもので、この頃であればまだこうした歌も特段の問題なく受容されていた。2014年のクリミア併合の頃から政権批判を盛り込んだ歌を歌ってきたようだが、2022年の開戦に及んでいよいよロシア国内での活動が難しくなり、現在は国外に移住しバンド活動も国外でのみ行っている。

「ロシア語で活動し、ロシア人と肩を組んで歌を歌うウクライナ人」と「政権を批判する歌を歌って国外に脱出したロシア人」というのは、現状それぞれの国のナショナリズム的熱狂からは一定程度距離を置いていることになる。そうした点で波長が合うリベラルなバンドのリーダー同士が、ラトヴィアのリガで同じステージに立った、というのが冒頭のニュースの趣旨である(もっとも今回が初めてというわけでもないようだが)。

ミリコフスキーは、リガに拠点を置くロシア語メディアからの「ウクライナ人として、ロシア人を理解することはできるか?」という質問に対して、「ウクライナ人として、みたいな考え方は好きじゃない」「その人個人として見るよう努力している」と、奥歯に物が挟まったような返答をしている。こういった歯切れの悪さが戦時下で好まれる道理はない。両者の思想は、おそらく平時であればそれぞれの国の特に若い世代にはそれなりの数の支持者を獲得してきたのだろうと思うが、現在の両国では疎んじられるに十分な理由たり得る。能天気なやつらだと笑われるくらいならマシで、そのぬるさを手厳しく糾弾され、激しいヘイトを向けられても不思議ではない。実際ミリコフスキーは2022年のインタビューで、彼がロシア語で歌うことに対してウクライナ国内でも批判は出ており、「ポルノフィリムィ」らロシアの反体制バンドとチャリティーコンサートを行うことも批判されても仕方がない、と述べている。コトリャロフは当然のように「外国の代理人」に指定され、ロシア国内での活動を禁じられている。

事実、平和な第三国で二人が手に手を取り合って歌ってみたところで大勢に影響はないだろうから、ひょっとするとそれも妥当な批判ではあるのかもしれない。イスラエル人とパレスチナ人が(ドイツ人の指揮のもと)オーケストラを結成することでなんとか相互理解に達しようとする苦闘を描いた『クレッシェンド』という映画があるが、今それを見てもあまりに牧歌的で、もはやグロテスクにしか見えないとの似たようなこと、とまで言ってしまっていいかどうか。


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ただ、戦時の理屈が平時のそうした微温的なリベラリズムを許容しないのが事実であり、何なら妥当性も持つということは認めるとして、現状ウクライナ・ロシア双方からはこうした「戦争には反対だが、音楽でそれを乗り越えられるかもしれない、というか、戦争のことを考え続けているのは実は若干ダルい……」といった「生ぬるい」声はなかなか日本までは漏れてこないので、冒頭のニュースを見たときちょっと不意を突かれたのだった。だから、多くの人がもともとは抱えていたはずの、どっちつかずな、なあなあな、ゆるふわな態度の存在それ自体は捉え損ねることのないように、記録として書き留めておいてもいいかな、と思ったのである。日本の私までもが一緒になってあれかこれかの決断を迫り、「第五列」探しに明け暮れても意味がない。

 

※※※※※※※※

ところで上の二人を調べているうちに、上の二人とは関係が無いが「シロトキン」というバンドがなかなか良さそうだと気づいた。

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2019年に発表された「家々より高く」のMVはジョージアトビリシで撮影され、冒頭の母と息子はジョージア語で会話しているようだが、それ以外にも、MVの映像がどれもかなり映画的な表現になっていておもしろい。2つ目のやつは、ちょっとD・ロウリー監督『ア・ゴースト・ストーリー』っぽ過ぎる気はするが。

youtu.be

youtu.be

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ただ、曲としては「Герои(主人公たち)」がとても良い。「とても良い」と思うからである。

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国と国、歴史と歴史の狭間で
ママたちの膝の上で
僕らは眠ることにした
未来へ駆けていく夢を信じた
誰も残らなかった
君と僕以外は
見知らぬ国以外、
夢や囁きを信じること以外は

 

ほら家が建ったよ
僕の居場所はどこ?
家は笑顔であふれていて
それが僕にとって何?
ほら家が建ったよ
僕の居場所はどこ?
100万年も二人きり
100万年も

いかがだったでしょうか!こんなときにロシアのバンドを楽しんでいる場合かですって?分かりました、ナイフを差し上げます!

留守電の点滅、四件は友達の声で

海がきこえるⅡ』、面白過ぎる。

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「Ⅱ(ツー)」ってのがいいよね、最近、続編が「ツー」ってことあんまないし。Switchぐらいじゃない?

海がきこえる』のアニメについては、もういつだったか覚えてすらいないほど前にDVDで見て気に入り、JR中央線吉祥寺駅にまで駅のホームを見に赴いた。後にも先にも、私が実施したいわゆる聖地巡礼はこれと「響け!ユーフォニアム』の京都・六地蔵駅訪問のみである。一体どういうチョイスなのだろうか?「後にも先にも」と言ったが、先がどうなるかは現時点ではまだ不明なのではないだろうか?

これは、最近用事があって行ったついでに撮った

その後『海がきこえる』の存在は長らく意識に上ってくることはなかったが、最近のリバイバル上映の波に乗って劇場で鑑賞したところ、いまふたたび新鮮に面白く、買うだけ買った原作をこれまで読んでいなかったことを恥じた。読んでみると、あまりにも面白い。おもしろ杉晋作。高知が舞台なんだからダジャレにするなら坂本龍馬だったかもしれませんね。

私がいいなと思うのは、里伽子の口調、さらには言っていることがめちゃくちゃなところである。

「夏休みが終わると、とたんにみんな試験とかなんとか言いだしちゃって。あ、ここ学校だったのね、どうもすいませんって感じよ」*1

 

「あたし、やっぱり、あのツムラさんて人、嫌いよ。あたし、恋人と一緒にいて、あんなに幸せそうにしてる人、初めて見た。嬉しそうで嬉しそうで、一緒にいた人、申し訳なさそうだった。あの男の人の奥さん、きっと凄いブスなのよ」*2

どう考えても一言多いこうした発言が理屈を超えて読者に殴りかかる。アニメには出てこない「ツムラさん=津村知沙」も同程度にめちゃくちゃで良い。*3

海がきこえる』を読んでいる時点で脳裏に浮かんだもう一人のヤバ振る舞いヒロイン、吉本ばななTSUGUMI』におけるつぐみの登場は1989年(牧瀬里穂主演の映画『つぐみ』が1990年)だ。この時期に「ヤバ振る舞いヒロイン」界になんらかの産業革命が発生したのかもしれないし、してないかもしれない。氷室冴子吉本ばなな、ともに女性であるわけで、こういう理屈抜きの台風みたいな女に振り回されたいという欲求は、男女関係なくあるのかもしれない。

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海がきこえる』を読んでいる間中、里伽子ってなんだかハルヒのご先祖様みたいなキャラだよなと思っていたら、実際谷川流は「長門有希の100冊」という企画で『海がきこえる』を99冊目に挙げているそうだ。『涼宮ハルヒ』シリーズとの何ら秘められていない接点を知ったうえでひとつ思うのは、女性が主に女性向けに書いた「少女小説」に登場するモチーフや、もっと言えば作品世界を支配する「ノリ」が、実は現在の主に男性向けのラノベや漫画、アニメ、あるいはもっというとギャルゲー(美少女ゲーム)みたいなものに保存されているんだなあということだ。

もちろん80~90年代あたりに出てきたそうした一連の小説群がラノベの源流なのではないかという議論があることは承知のうえで、『海がきこえる』を読んでいるとあらためて色々なことに気づく。女の子が登場するたびにいちいち「美少女」「美人」みたいな容姿の値踏みが始まる、主人公がある種の「鈍感系」(周囲の人間やあるいは読者にとって自明のヒロインとの良好な関係になぜか主人公だけが気づかない、もしくは気づかないふりをしている)である、女性にモテないわけではないがなぜか主人公の恋の邪魔にだけはならない友人男性が存在する、性的に奔放で蠱惑的なサブヒロインが存在する、登場人物たちがやたらとお金を持っている、恋する男女の祝祭であるクリスマスに代表されるカップル文化の影響力が絶大である。「クリスマス・エクスプレス」?またしても牧瀬里穂だ。恋愛の神秘を解き明かすためには牧瀬里穂の研究をしたほうがいいのではないだろうか。

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上記は要するに、バブルかその崩壊直後くらいに「恋愛かくあるべし」という型が出来上がって、それが太古のファンタジーとして現代の男性向け恋愛コンテンツのなかに化石のように残存しているのではないか、という気づきだ。80~90年代初頭くらいに創造された愛の形が現在のラブコメを規定しているとすれば、それらが持つ現実からの遊離した感覚も一応の説明がつく。現代のラブコメ――べつに『ロシデレ』でも『着せ恋』でも『僕ヤバ』でもいいのだが――に、深刻なまでに生活苦に喘いでいる登場人物などいない。基本的には親の築いた富を十二分に活用し、純粋な青春にのみ生きる環境が整えられている。『海がきこえる』では、修学旅行はハワイだし、プレゼントはブランド物のブラウスや真珠のイヤリングだし、車は乗るわ酒は飲むわ、いかにバイトに励んでいるとは言えあまりの景気の良さに眩暈がしてしまうのだが、この「景気の良さ」が現在のラブコメには抽象的な気分としてだけ保存されているわけだ。実態としてはもはやファンタジーになりつつある「中流家庭」のイメージが、ラブコメの中でだけ90年代からあまり変わっていない。

そう考えると、現代の数多の男性向けご都合主義ラブストーリーの骨子というものは、完全に男性だけの都合で好き勝手に作られてきたたわけではないということも言える。男女の(あるいはその他様々な性のグラデーションを考慮に入れても同じことだが)欲望というものは、歯車同士が噛み合って片方が動けばもう片方も動くというようなもので、どちらかが単独でずんずんと発達していくというようなことはないのではないか、というほんのりした仮説。里伽子は男になびかない強い性格の持ち主と捉えることも出来るが、現代的に見れば非常に男に都合のいい部分を持っている。しかし一方で、実は主人公の杜崎拓も恋愛に関してはかなり受け身で、里伽子の(あるいは津村知沙の)溢れんばかりの欲望に引きずられながら、その形に沿って自身の欲望を形作っているような節がある。女性が男性の、男性が女性の欲望を、それぞれ規制し牽制し形成し合っている。

氷室冴子をフェミニズム的に再評価するという流れがあり、それはそれでもちろんひとつの重要な方向性なのだが、学問的には二等と見なされていたサブカル表現を学術の領野に植え替える際、学問が一種のジェントリフィケーションとして機能し、文化のうちに本来渦巻いていた混沌とした生命力を枯らしてしまうこともまたあり得る。この時期の少女文化が果たした機能には当然「エンパワーメント」的なものだけでなくて、何かを強く欲望するよう女性たちを唆すことでそれを消費する女性たち自身を蝕むような「諸刃の剣」的な側面もあったには違いなく、そうした文化が持つ現代の男性向けサブカルとの親子関係(あるいは共犯関係)のようなものは、掘り甲斐があるところなのではないか。もっとも、そういうのはたぶん文学だけでなく少女漫画研究の文脈などでもいくらでも研究している人がいるのだろうから、私が深掘りするまでもないと思うけど。

ところで最後にもうひとつ。文庫版の『海がきこえる』第1巻で、最後に高知の同窓会の二次会に里伽子が現れる場面(アニメにはない。原作だと拓と里伽子は意外とあっさり東京で再会している)、彼女はカラオケで

「武藤、歌いまーす。アムロかけて」*4

と言っていて、これはどう考えても安室奈美恵なわけだが、『海がきこえる』の最初の連載は1990年~1992年であるのに対し、安室奈美恵若い女性にとってのアイコンになったのって1990年代の後半ではなかったか?この点がどうしても気になって、さすがに連載当時の雑誌のほうは無理なのでとりあえず1993年刊の単行本を取り寄せた。

するとまず、クラスの女子たちが歌っているのは「カラオケ女王のアキナ・ナンバー」である中森明菜「少女A」、サザン、光GENJIで(文庫版だとこのあたりは「ポップスナンバー」という表現に丸められてしまっている)、里伽子が歌うのは「ウインク」である。私も、里伽子の父の再婚相手よりずいぶん年上だということが判明したのでこの期に及んで若ぶるわけにもいかないのではあるが、1990年初頭の若者文化のレアリアまではさすがに肌身で感じていないので、素敵やん、という気持ちだ。そう、素敵なのに、そうした時代の記憶を破棄してまで当時最新の安室奈美恵に付け替えてしまう、時代に殉じるフットワークの軽さ、消費の速度に付き合い続ける節操のなさのようなところにも、ひとつこの作家の評価にこれまで重みが加わらなかった要因が見出されるのかもしれない。もちろん、そんな「重み」要らないんだと言われればそれまでだ。「いらないんだ」って里伽子言いそう。

「泣けちゃうセリフだ。だけど、みんなの気持ちがわかるって誰の気持ちもわからないことよ。ただの八方美人なのよ、拓は」*5

もっと細かく突き合わせていけばもっと重大な異同が見つかるかもしれないが、そういうのはガチの氷室冴子研究者か、暇すぎてこんにゃくを山折り谷折りにするしかやることがない人がやればいいと思う。それはそうとして、「Ⅱ」のこの里伽子、絵柄が他の挿絵と違いなんだかまるっとしていて、若干水木しげる感がある。それはそれでかわいいけど。

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*1:氷室冴子海がきこえるⅡ:アイがあるから』徳間文庫、2023、49頁。

*2:同上、174頁。

*3:ちなみに言っていることがめちゃくちゃと言えば、槇原敬之である。『海がきこえる』と同時代の1993年に発表された「ズル休み」では、

人は必ず誰かに愛されてると言えるよ/だって僕は今でも君をとてもとても好きだから

ときた。ここには、好景気の残り香だけ抱いて恋愛の乱麻を絶とうとする勢いがある。歌詞中で留守電が非常に重要な機能を果たしているあたり、完全に『海がきこえる』と時代精神を一にしている。この時代に「恋愛」に何かが起こっている。ところで私は「ズル休み」を国歌にしたほうがいいと思っている。「ズル休み」を国歌にすることで、そもそも国歌って何だっけ?という疑問を持つ人が増え、ひとりひとりにとって一番大切な歌が人それぞれの「国歌」になり、「国」のなかに数えきれないほどの「国境」が引かれ、そこに無限の「国々」が生まれる。あなたがあなたという「国民」の象徴となり、通勤途中に見かけただけのつまらぬ雀が即座に「国鳥」となり、面積を持たない点としての「国」を挙げた保護活動が始まる。

*4:氷室冴子海がきこえる』徳間文庫、2022、303頁。

*5:氷室『海がきこえるⅡ』、140頁。

眩しい

"Mav-d"というラッパーがいる、らしい。よくは知らない。Mav-dって何?マブダチ?


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Mav-d、本名ヴャチェスラフ・バズザーエフについては、名前以外のプロフィールがほとんど公開されていないが、ロシア連邦北オセチア共和国ウラジカフカスの出身で、以前ここで言及した同じくウラジカフカス出身の10億回再生ラッパー"Miyagi & Эндшпиль"の作ったレーベル"Hajime Records"に所属しているらしい。同じ地元出身の若手をフックアップしたということなのだろう。

上は「おとぎ話」という曲のPVだが、映像中に出てくる文字が「コーカサスっぽ」フォントになっているのが面白い。

道の思い出が残る

ここに最後の一息まで留まる

それを何分にも引き延ばせ

組んだ腕を解け、友よ

人はいちばん優しいものには鈍感で

みっともない振る舞いをする

かつてタブーだったものが基準になった

俺はそれを受け入れない

見た目はそんなに善良そうな人ではない(なぜなら刺青が入っているから)が、歌詞をチラッと見た限り歌うその中身は硬派かつ抽象的で、葉っぱが女がといういわゆるギャングスタ・ラップ的なモチーフは扱われない。「帆を広げ、帰り道はなかった/大事なもの、正しいものを案じ、救わねばならない/心が勇敢なうちは、これについて最後まで/人生は闘うことを教える、創造主の盃が満たされる」というフックにも、ほとんど宗教的と言っていい切実な使命感のようなものが表現されている。

ところで、そういえば、ウラジカフカスってどんなところなんだろう。そう思いGoogleマップで調べてみた。

https://maps.app.goo.gl/TyNP9Fo4NPG8vfMj9

なんだろうこの既視感は。俺は、たしかにこの景色を見たことがある。長く、甘い夢の中で…………………

 

…………

 

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………………………………‥‥‥・・・・・・・・・??

 

https://www.jalan.net/kankou/spt_03201ab2040113720/

?????

https://taptrip.jp/13880/

正解は、ウラジ盛岡。