都市を盗る

「君はなんだか子供っぽい考え方をしているな。生活がある。そしてそこに芸術があり、創造がある。ソッツ・アートがそこにあり、コンセプチュアリズムがそこにある。モダンがそこにあり、ポストモダンがそこにある。僕は昔から、こういうものたちを生活と混同しないようにしている。僕には妻がいるし、子供ももうすぐ産まれる ― これがね、アンドレイ、真面目ということなんだ」

ヴィクトル・ペレーヴィン「黄色い矢」より

アルセーニー・コトフ『ソ連の見捨てられた町』という本を買った。

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プリピャチ、バイコヌール、ノリリスク、マガダン、ヴォルクタほかを著者がめぐった記録だそうだが、届いたばかりなのでまだじっくり読めてはいない。ぱらぱらとめくった印象では、写真はきれいだし、エッセイの部分もなかなかおもしろそうだ。表紙は、コミ共和国ヴォルガショルではじめて石炭が採掘されてから10周年を記念し1985年に建てられた〈石炭の碑〉らしい。

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vorkuta-ice.ru

日本ではすでにロシア人写真家ラナ・サトルによる『旧ソ連遺産』が出ているし、そのほかにもロベルト・コンテ&ステファノ・ぺレゴ『ソビエトアジアの建築物』、星野藍『旧共産遺産』『ソ連のバス停』が、またバス停については上述の書籍の元ネタと思われる『Soviet Bus Stops』がある。この地域の建築(廃墟)の人気は洋の東西を問わず根強いようだ。

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買っておいてなんだが、いわゆる廃墟趣味というものと窃視症との間の明確な線引きが私にはできていなくて、それをうしろめたさ抜きに楽しむ回路は頭のなかで完成していない。他人の生活を―たとえそれが痕跡であるにせよ―一方的に覗き見て無事では済まないことは、安部公房箱男』が伝えるところだ。

生活は見世物ではないし、もっと言うと、見世物として作られた舞台すらその裏口は生活につながっている。たとえば上の写真の少年(?)がこれからどこに行くのか、学校に向かうのか、それとも帰り道か、友達の家に遊びに行くのか、この日に何を食べたのかあるいは食べるのか、算数は得意か、体育は得意か、好きな人はいるのか、毎日は退屈か、目の前の丸い屋根を好きか嫌いか、あるいはもはや背景の一部に溶け込んで目に留めてすらいないのか等々の疑問が、この写真集を彩る奇抜な構造の建築物より私には重要で、そんな言い訳をしたところでこれが覗きであることに変わりはないのだが、だからせめてもの復讐としてこの少年は、写真の美を台無しにすることになっても、カメラに向かってピースをしてやるべきだったのだ。

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死んで煮込みが咲くものか

大気に怒りが充満している。ボルシチの次はシュクメルリである。

つねづね述べているように、飯をめぐって喧嘩をすること、これすなわち悪である。「不味い」と呟くその口唇に果汁グミでも放り込んだほうがどれほど豊かな生か。

下に、ジョージア(ないしサカルトヴェロ、グルジア)で食べたシュクメルリの写真を2枚載せる(連れて行ってくれてありがとう)。当時使用していたスマホのカメラの性能がモチョモチョに悪く、画質がひどいことはご容赦いただきたい。その代わりと言ってはなんだが、最近撮った路傍の花の写真と交互にアップしたいと思う。怒りより花を、悲しみより鶏を、というわけだ。ちなみにその後、見よう見まねでシュクメルリを自宅で再現しようとしてみたが、鶏肉が牛乳をはじいて終わった。

日本を代表する映画監督が「悪は存在しない」と悠長なことを言っている間に、SNSでは怠惰な衛星の引力に紐づいた矮小な悪意の潮が我々のすぐ足元まで満ちてきている。危ない、すぐにその浜辺を離れ、家に帰り、温かい飯を食い、毛布にくるまり朝まで眠るべきである。

『悪は存在しない』は、良かったが、2時間なかったので濱口作品としては比較的薄味な気がして、私の中では『不気味なものの肌に触れる』とか『天国はまだ遠い』とか『偶然と想像』と同じ箱に入った。主演の女の子(西川玲さんという方らしい)は、アップで撮るとあまりにも大人びた顔をしているのだが、引きで撮るとふつうの小学生の背丈なので、知覚がバグってしまった。公式サイトによると、西川さんの特技は「掛け算」らしい。

なにはともあれ、本当に、助けてほしい、私を、今すぐ。

何の踊りの時間なんだ

ブレイクダンス社会主義化するぞ!」には笑ってしまったが、特に後半にいたってはコメディというより、ロシア映画の『LETO』や『スチリャーギ』に漂う哀しみを彷彿とさせる映画だった。


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「本当はこんなことはなかったのだけど」という苦笑いを挟むことだけが、社会主義時代の灰色の生活をカラーで想起するためのよすがなのか。要は一種の自虐芸だが、それは「そんなに卑下することないよ」と言ってくれる人が現れるところまでがワンセットだ。果たせるかな、無責任な外の人間は、パトカーの屋根で踊り出す東ドイツの若者も、列車の車両で大暴れするソ連の若者も本当は存在せず、スチリャーギたちの着ていた服が本当は映画ほどには鮮やかでなかったのだとしても、素直に肯定すべきものもそこにあったのでは、などと慰めたくもなってしまう。

「こんなことはありませんでした」

もちろんこれらの映画は、「そこに本当はあってほしかったもの」を描くことによって、外からは灰色にしか見えない社会の内面に滾る熱情をうまく描き出してはいる(『ブレイク・ビーターズ』は、エンタメとしては平凡な仕上がりではあるが)。当事者は、こういうねじれ抜きに過去を語る回路を、今のところ持てていないのかもしれない。

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似たテーマの映画に韓国映画『スウィングキッズ』がある。1951年、朝鮮戦争のさなか、北朝鮮の捕虜たちが韓国側の収容所でアメリカ人ダンサーと出会い、タップダンスに魅せられていく物語。ブレイクダンスだろうがロックミュージックだろうがブギウギだろうがタップダンスだろうが、映画の中では社会主義陣営の人々は常に西側(というかだいたいアメリカ)の歌や踊りに魅せられ、全身で自由を表現することになっている。逆に西側の人間が社会主義の思想に魅せられ、全霊で資本家への怒りを表現するエンタメ映画は今のところ見たことがない(いや、知らないだけであるのかもしれないが)。そう、このように、世界は不平等なのである(!?)


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身体的な表現はイデオロギー的な対立を超える、というテーマであれば、ちょうど昨日見たインドの『ストリートダンサー』や、もっと言えば大ヒット作『RRR』も同じようなものだ(『RRR』の〈ナートゥ〉に『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の思想を掛け合わせたのが『ストリートダンサー』だという見方もできる)。


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ところで、『ブレイク・ビーターズ』は『僕たちは希望という名の列車に乗った』を思い出しながら見ていたのだが、仲間のうちのひとりは体制側に寝返る、というのは、東ドイツもののお約束かなんかなのだろうか。一体誰との約束なんだ。


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哀れな土地、波打つ人びと

たまに行く小さな映画館がかつてないほどの人で賑わっていて、みな列をなしてパンフレットを買い求めている。館内に入れない。何事かと思ったら、俳優の井浦新が舞台あいさつに来ていたらしい。私にとって井浦新と言えば、昔モスクワで見た三島由紀夫の伝記映画での「ちょっと走ってきます」である。

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パンフレットが売れていたのは、井浦新がサインをしてくれるからのようだ。私はその次の回の映画を見るために急いでいたので、井浦新本人を目にすることはかなわなかった。しかし、井浦新を求める列が伸びれば伸びるほど、井浦新に群がる人びとの稠密さが増せば増すほど、その人間の塊は井浦新の輪郭を忠実になぞる。井浦新の姿かたちがそこに精確に浮かび上がる。となれば私は本日、井浦新〈本人〉を目にしたと言っても過言ではない、そうではなかったか?

今日見たのは『ゴッドランド』。傑出していた。「外国に赴く際は、その国の言葉を多少なりとも学ぶ姿勢を見せなければ死」という事実をこれ以上ない形で提示してくれている。


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アイスランドの風景は、それを切り抜くだけで絵になる。「ショットが決まる」という感覚を味わわせてくれる(もちろん技術的には「切り抜くだけ」なんて処理がなされているはずはないのだが、それでも)。似たような風景をロバート・エガース『ノースマン』で見た気がしていたが、あっちは舞台設定がアイスランドなだけで、撮影場所はアイルランドらしい。なんにせよ『ゴッドランド』のほうが自然との対し方が上等だと思った。滝は落ちるだけ、溶岩は流れるだけ、雪は積もるだけ、風景はそこにあるだけですでに均整が取れている。

それに比して、『ゴッドランド』で映し出される人びとの振舞いは、いついかなる時もバランスが悪く、タイミングが悪く、おさまりが悪い。通じない言葉で会話にならない会話をし、写真を撮ろうとすれば人はじっとしていられず、それを現像しようとすれば器具は倒れ、テントで祈ればろうそくは消え、女性が部屋に入ってくるときに男は裸であり、会食の席でワインはこぼれ、作法を知らない人間が取る相撲の決着はつかず、やっと建てた教会でお祈りをすれば子供と犬に邪魔をされ、正装に身を包んだ牧師はころんで泥にまみれる*1

エガースであればむしろ『ウィッチ』(こちらも布教のために未開の異郷に居を移す家族の話だ)を思わせる、悪意や超常現象によってではなくただただ人間の不完全さによってすべての歯車が狂っていくような、そんな2時間30分。現地民の姉妹、妹のイーダの演技に心を洗われる。半分だけデンマーク人だと笑うときの手の動き。馬上でのポーズの豊かさ。これだけが救いだ。


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目指した2軒が満席で入れず、やっとたどり着いたビール。とにかくおさまりの悪い日

*1:『ゴッドランド』のパンフレットに収録されているエッセイのひとつでは、アイスランドの自然が「複雑な曲線と曲面、パターンに収まらないカオス」であり、主人公の辿り着いた村が「パターンと直線ばかりの人工物」にまみれている(つまり、自然の中に不自然な秩序を持ち込んでいる)としている。だがここで述べたように、本作ではどう見ても人間の営みのほうが、いつもどこでも破綻の傷口をさらけ出す「カオス」のように私には見える。

嵐を呼ぶアファーマティヴ・アクション帝国の逆襲

クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』では、登場人物が"Russian"と発声している箇所が、字幕ではことごとく「ソ連の」と訳されており、気になった。嫌だった、と遠回しに主張しているのではなく、単純に気になったのである。それを見るちょうど前の日に『アファーマティヴ・アクションの帝国』という本を読み終えたからだ。

700ページもある本(もっとも、あとがきや註、索引が100ページ以上を占めるので、本文は555ページだが、とは言え)の詳細にわたる書評を書ける気はしないのだが、簡単にでも読書メモをつけておくと、あとあと自分が助けられるということがままある。

ソ連全土、それまでそもそも一個の民族と見なされていなかったもの含む多数の民族にまたがり、紆余曲折を経ながら繰り広げられる優遇政策の内実と、その興亡を実証するための膨大なデータが詰め込まれた本書を読み通すのには難儀したが、しかしながら、ひとつ議論の中心となる問いを絶えず想起し続けることによって振り落とされずに読み進めることができる。私なりの噛み砕いた言い回しを許してもらえるなら、それは「労働者の国であるソ連にとって『民族』とは、憎たらしい、いなくてもいい、できればそこにいて欲しくない〈要らない子〉であったはずなのに、どうしてこんなにもかわいがって育て上げる必要があったのか」というものである。

『アファ帝』が用意する答えは明快だ。共産主義の理念が、「階級」以外に人間を分ける指標はないといくら強弁したところで、人種・宗教・ジェンダー等々の区分を人は無視できず、むしろそこに強くアイデンティティを係留している場合がほとんどである。そうなると、現実的には経済・行政・教育・文化等の各方面でロシアを軸に回さざるを得ないソ連の国策(たとえば農業集団化など)が、経済政策としてではなくロシア帝国時代から続く非ロシア人に対する人種的な抑圧と捉えられ、反ソ的な民族運動が巻き起こる危険が常にあった。そこでいわばガス抜きのために、非ロシア人の優遇政策を取らざるを得なかった。

プロレタリアートである限り人は人種も性別も宗教も国境も超えて手を取り合える、理論的にはそうなっている。しかし広大な領土を誇るソ連の内部では、いつもその絆に「民族」が割って入る。ならばと導入される、「民族」という概念を最終的に廃棄するための弥縫策としての非ロシア人優遇。アクセルとブレーキを同時に踏み込むかのようなそうした大いなる政策上の矛盾が、1920-30年代のソ連の国家運営に抜きがたく存在していた。その前提を捕まえてさえいれば、読み進めるのに困ることはなくなるはずだ(なんなら初読時は、細かいデータの隅々まで見る必要もないだろう)。

ソ連構成国15か国(もっともバルト三国は年代的に議論に入ってこない)のうち、本書はウクライナ中央アジアの問題に大きな紙幅を割いているが、なぜロシアという国が今になってもウクライナにこんなにもこだわるのか(理由があるから侵攻してよいという話にはまったくならないが)*1という問題の根っこや、ソ連崩壊時に旧ソ連の国々で独立運動が民族運動として巻き起こった機序などが、これを読むことでかなり明晰になってくると思う。『ミスター・ランズベルギス』『唯一、ゲオルギア』などの副読本にも最適である。

話は変わるが、ソ連とかロシアとかウクライナとかに興味がなくても、本書はアファーマティヴ・アクションというものが社会にもたらす影響を論じるうえで現代的な意義があるように感じた。塩川伸明による「あとがき」にもあるように、著者マーチンがアメリカにおけるアファーマティヴ・アクションの興隆とそこから生じるバックラッシュを目の当たりにしたことが本書の元となる論文の執筆動機のひとつ*2になったようだが、現代日本において左派・リベラル(もはやこの二語はごっちゃに使用されている感が否めないが)が取り組む社会運動にも無関係ではない。そうした場でよく用いられる戦法は、左翼の帝国であったソ連において20世紀前半に出そろっていたのだ。

たとえば、本書でよく言及される理論に「最大の脅威」論というものがある。プロレタリアートが統べる国に民族主義は不要とは言え、歴史上虐げられ発展を阻害されてきた民族の間にナショナリズムが芽生えることにはまだ汲むべき事由があるが、ロシアにはそれはない。ロシアにおけるナショナリズムの強まりは他の民族の正常な発展を脅かす「脅威」でしかない、こういう論法である。この理屈に基づいて当初ソ連ではロシア人(語、文化…)の権利は実質的に制限されていた(≒他の民族が受けられる優遇をロシア人のみ受けられなかった)。そうした事態にロシア人は不満を持ち、その後の反動的なロシア・ナショナリズム形成につながっていく(第10章、11章)。

これは最近よくネットで目にする「権力(権威)勾配」の議論と言っていることがまったく同じだ。これの出どころを探ろうとする人もたまに見かけるが、当然のことのように左派の牙城(牙城ってカッコ良すぎる、住みたい)ではそうした議論が行われていたのである。本書には(原語までは未確認だが)「戦闘用語」という言葉も出てくる。イデオロギー闘争に勝利するために、いわば喧嘩殺法の道具として様々な用語を編み出していくというのも、当然のことながら行われていた。

ところで『アファ帝』を読んでいる最中、ひょっとしてこれは「ソ連は『良いこと』をしたのか?」的な問題設定と捉えられなくもないのでは?という考えが頭の片隅に浮かんだ。しかし実は元ネタのほうは読んでいなかったので、慌てて買ってきた。すると以下のような記述にぶつかる。

そうした(社会的平等をめざすという意味で)「社会主義的」な政策が導入された背景には、労働者を懐柔して階級闘争から引き離し、格差のない「民族共同体」に統合しようとするねらいがあった。社会・経済的に恵まれない労働者層に手を差し伸べ、彼らを称揚して誇りや自尊心に訴えるとともに、ある程度の実質的な利益を提供し、将来の豊かな生活を期待させることで、体制への順応を促進しようとしたのである。*3

ソ連にとって「民族」概念が〈要らない子〉であったことの裏返しとも言えるが、「人種」「民族」を社会運営の基盤とみなすナチスドイツにとって、「アーリア人」同士の絆に亀裂を生ぜしめかねない「階級」の概念は、できれば家においておきたくない厄介者であった。しかし、格差にあえぐ労働者の機嫌を損ねればアウトバーンの建設どころではなくなる。だからこそ、共産党員や労働組合への弾圧を強める一方で、労働運動・福利厚生の充実などにある程度の配慮をした、というのが『ナチスは「良いこと」もしたのか?』の議論である。イデオロギー的には両極にあると言ってもよい両国だが、いずれにしたところで人は理念だけでは動かない。国家を運営するには避けられないある種の余白、グダグダを見せつけられるようでもある*4

巷では「現金に体を張れ」とか「往生際の意味を知れ」とかいろいろ言われているようだが、私が言いたいのは「1万円の本を読め」である。200頁の新書を3~4冊読むのと『アファ帝』を読むのでは、読む文字数自体はさほど変わらないだろうが、得られる知識の体系性と厚みが段違い、だと、思う、たぶん。ほんとうに面白かった。

*1:この点について、ロシアのやっていることは悪いことなのだから理解してやる必要などないという意見はあり得る。一理あるが、それは「理解」という言葉をお役所言葉的な意味で取ってしまっているのだとも言える。「ベンチの形状はこれです。ここに道路を引きます。公園の遊具を撤去します。ご理解のほどよろしくお願いいたします」という口吻が、「いろいろ言い分はあるだろうが、こちらの事情を汲んで、文句を言わないで従ってほしい」という本音を包むオブラートでしかない場合の「理解」である。『アファ帝』が求める「理解」とは当然そういった類のものではない。ここでは、ソ連の中心として大きな力を持ってきたロシアと、ある種二番手的な立場から、ソ連の中で自分たちの利益を獲得するためにしたたかに動き続けてきたウクライナが繰り広げてきた綱引きの様子が克明に描かれている。歴史書を一冊読み通した程度で現行の悲劇に対し即効性のある解決策を提示できるわけもないが、宇露の複雑な歴史について誤ったことを述べている人の言うことを誤っていると判断できるようになり、聞く価値のある意見を見分けやすくなるならば、それには大きな価値がある。いわゆる「ホロドモール」についても詳細に論じられているので、『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』などを見つつ本書を繙いてみるのもいいだろう。ソ連におけるウクライナ優遇政策は、ウクライナ語がたどってきた歴史のほんの一端でしかないので、「キーウ」という呼び名の提唱者である中澤英彦「私が『キエフはキーウに』と提唱した理由」なども合わせて読んでおくことが望ましい。

*2:監訳の半谷史郎によると、著者の祖母がダゲスタン出身のカナダ移民であったというのも、本書が生まれたきっかけのひとつだそうだ。

*3:小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』岩波書店、2023年、18頁。

*4:『ナチ良い』の著者らは、ナチスドイツとソ連を「全体主義」と大括りにしてまとめて批判する論法を批判し、「より複雑な支配の実態」(同上、19頁)に注目するよう注意を促しているので、そこには気をつけたい。

白き頁に触れもみで

『ア・ゴースト・ストーリー』を見た。良かった。おばけに手が触れそうで触れないところなどが。

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ニーチェっぽい、という感想を目にしたが、本棚に"NIETZSCHE"と書かれた本がおもいっきり置いてある。

これすね?

背表紙を見ていくと、ほかにはガルシア=マルケスコレラ時代の愛』、ジョイス『ダブリン市民』、トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』、クッツェー『鉄の時代』、アーレントエルサレムアイヒマン』など(映画のモノグラフに引かれているウルフ「幽霊屋敷」も。ヘミングウェイもあるが、書名が読めない)。下の段、文字がひっくり返っているドナヒュー『部屋』は、映画『ルーム』の原作だそうだ、見てないけど。

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書かれたものが「遺産」だし「希望」だ。登場人物の言うとおり、たとえ"The pages will burn"なのだとしても。

食べればナイトメアが必ず見れる

変な時間に寝ると変な夢を見る。みじめな我々の住む有為転変の世界では常識である。

① 生家の玄関先に立っている。ふと空を見上げると、羽をたたんだままこちらに滑空してくる鳥と、しっかりと目が合う。私を睨んでいるかのようだ。鳥はそのまま我が家の植え込みの土の上にどさっと落ちる。よく見ると、硬直した鴨らしい。死んでいるのかと思いきや、しばらくすると鴨は起き上がり、庭の奥の方へと歩いていく。後を追う。鴨は庭に転がっているトマトをついばもうとするが、まだ青くて固かったのか、吐き出す。私はトマトが好きなので無性に腹が立ち、棒で鴨を追い払おうとする。鴨は物置の床下に逃げ込み、姿が見えなくなる。すると物置の中から物音がする。どうやら鴨は物置の下に開いていた穴から中に潜り込み、物置に住んでいる私の兄に撫でられ、なついているようだ。

② 映画館。すでに劇場内は暗く、映画は始まっているか、始まろうとしている。広い室内の右上に目をやると、何かに対して警告を発するように、赤く四角いランプが音もなく点灯している。なぜなのだろうと思っていると、どうやら私が持っている煙草の火に反応しているらしい。なぜか私は両端に火をつけていて、煙草はもうほとんど細長い灰と化している。ランプの点滅のせいで迷惑をかけたのか、左に目をやると、他の観客3名ほどに怖い顔をされる。私の横にすでに死んだ祖母が座って、一緒に映画を見ている。

全然関係ないが、ロシアの音楽家アレクセイ・アイギ(Алексей Айги)のアルバムが今さらだが良いなと思って最近聞いている。世の中だいたいのことは「今さら」でしかない。〈幸運を司る女神には前髪しかない〉らしいが、俺はその女神を追いかけていって無理やりに振り向かせ、「どうしてコサックみたいな髪型なんですか?」と問う。

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どこかに美しい映画村はないか

最近劇場で見た映画が、タルコフスキータル・ベーラビクトル・エリセと、「シネフィルに憧れるしゃらくさい大学生」スターターセットみたいな感じになってしまった。実際のところ、私のメンタリティはシネフィルに憧れるしゃらくさい大学生と同じ村に住んでいるので、それはまあ別にいいのだが、さすがに塩抜きをしないといけない。そう思って『アフリカン・カンフー・ナチス』を見たが、こっちの村はこっちの村でめんどうな因襲に支配されていそうではある。ちょうどいい塩梅というのはないものだろうか。


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劇中で「大きな黒人の女の子」と東条英機に紹介されている黒人女性ファイターの造詣があまりにも良い(本当に日本語で「おおきなこくじんのおんなのこ」と言っている)。このキャラクターを見るためにU-NEXTに加入する価値があるだろう。

いわゆる「B級映画」について、最近『DUNE』の新作が公開されたことにより呼び覚まされた記憶がある。かつて人がまだTSUTAYAに通ってDVDを借りるという暮らしを営んでいたとき、私はDUNEでも見るかと思って、間違って隣に置いてあったDUNEのパチモンを借りてしまい、DUNE自体に関する予備知識がまったくなかったので、途中までそれを本物のDUNEだと思って見ていたことがある、というものである。

そのあと本物のDUNEも見たが、正直パチモンのほうが現時点でも強く印象に残っている。「何かを作りたい」という思いが実らせる果実の大きさは、資本の多寡では測れない。『プラネット・デューン』がそもそも〈果実〉なのかどうかについては、議論の余地がある。

お前は赤ままの花やカザフのうどんを歌うな

カザフスタンに何しに行くの」と姉に問われる。

 

本当のことを答える義理はない。厳密に言うと、義理はある(血がつながっているので)が、答えて理解してもらえるかどうかは分からない。

 

私は少し考えて「カザフうどんを極めに行くのだ」と答える。

 

「うどんを極めるには、捏ね5年、踏み5年、切り5年、茹で5年の修行が必要だ」と姉は言う。

 

20年もかからないと極められない料理?そんなものに人は貴重な時間を費やそうと思うものだろうか。度を越えた洗練への要求はときに枷となり、人を人生のぬかるみに縛り付けることになる。なんでこんなことになってしまったんだろう。私はただ、適当に嘘をついただけなのに。

 

アルマトイ国際空港に降り立つ。タクシーでホテルに向かう。部屋にたどり着き、近くの食料品店で買ったビールの缶を開け、ほっと一息をつく。明日から1週間、異国の地での活動が始まる。どこへ行こう?何を見よう?

 

<カザフうどんを極めに行くのだ>

 

ホテルの分相応に広い部屋の隅には、照明の届ききっていない暗がりが存在し、そこから聞いたことのある声がする。

 

カザフうどん?

 

それは一体なんだ?

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家父長は心配症

カザフスタン滞在中のある日、その日に成すべき用事が済んで時間が空いたので、たまたま見かけた映画館に入ってみた。

どうせ見るなら、わけがわからなくても国産のカザフ語映画がいい。しかし、あまりに意味不明だった場合つらいので、上映時間が短めのコメディを選んだ。『学生コケ』(2024)という。ただ蓋を開ければ(国の仕組み上、考えてみれば当たり前だが)ロシア語の字幕がついていたのでむしろ分かりやすいくらいではあった。日本も広い*1ので、これを最初に見知った日本人が私だなどとは言わないが、日本では100%劇場公開はされない映画だから、紹介しておく意味もあるかと思う。

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ポスターの3人のうちどれが「学生コケ」かというと、帽子をかぶった真ん中のお兄ちゃん、ではない。これは主人公と寮で同室になるモンゴルからの留学生で、「学生コケ」は右のおじさんである。物語は、地方で妻と3人の息子とともに農業を営むこの53歳のおじさんが、一念発起して都市部の大学(たぶんアルマトイのナルホーズ大学の経済学部)に入学する、というところから始まる。

そうなると、このおじさんが勉学に恋に飲み会に、青春を満喫しようと奮闘し、年齢の違いからドタバタが巻き起こるが、次第にみんなに受け入れられていき…といったプロットが期待され、その予想は大きく外れるわけではないのだが、問題は左のヒロインである(ポスターより動いているときのほうがだんぜんかわいい)。同じく新入生であるヒロインは、実は主人公がかつて付き合っていた女性がひっそりと産んだ、主人公の実の娘であり、その女性の死の報せとともに、主人公は成長した娘の存在を知ることになった。主人公は、娘を見守り、なんとかして自分が実の父であることを告げるために大学に入学したのである。一方ヒロインは、父は自分と母を棄てたと思い込み、憎しみの入り混じった複雑な感情を父親という存在に対して抱いている。だから主人公は事実をなかなか切り出せず煩悶する。

あとあと調べたら、「コケ көке」 というのがカザフ語で「父」らしいので、要するに題名は「スチューデント父ちゃん」みたいな感じだ。しかし、無理がある。目的に対し、家業をいったん放棄し大学に入るという巨大な労力を割く必要がまるでない。

本作の面白みは、自分が実の父親であると告白しようと、あの手この手でヒロインやその友達に近づいていく主人公の滑稽かつ意地らしい様を眺めるというところにある。あるのだが、客観的に見ると、53歳の社会人学生が、みんなの人気者の10代の女子大生に猛烈に言い寄ろうとしてプレゼント(iPhoneや肉塊)をしたり手を握ってみたりし、ときに鬱陶しがられ、ときにあまりにあっさりとヒロインの懐に入り込む様子が映し出され続けることになる。だから、(日本がそういう問題に関するセンシティブさを誇れるということはなくとも)日本だとどう考えてもNGでは?みたいなシーンは山ほどあった。娘視点で見て親子関係が明らかでない『お父さんは心配症』のようなものである。アウトではないだろうか。『お父さんは心配症』のほうがもっとアウトかもしれないが。

『学生コケ』にこんなシーンはない

ただ、常日頃思っていることだが、アカデミーだカンヌだの出品作みたいなものにはどうしても「外向き」に見せたがっている自国の姿が映し出されるもので、そういう作品では、たとえ当該の国家の暗部であろうが、かなり自覚的かつ客観的に、洗練されたかたちで撮られているのだと言える。他方『スチューデント父ちゃん』は、どう考えても国外の目の肥えた批評家やシネフィル目がけて作られた作品ではない。それでかえって、そこに無自覚に表れるコモンセンスの偏りのようなものを面白く観察することができたのだった。逆に言うと、日本を知りたいという外国人に『ハッピーアワー』と『名探偵コナン 黒鉄の魚影(サブマリン)』のどちらを勧めたらいいのか、という問題である(交互に見せたらいいのかもしれない)。

たとえば一箇所、字幕があってもよく分からないシーンがあった。ヒロインには学外に付き合っている男がいる。彼らがお互いの出身部族を確認するシーンがあるのだが、彼氏のほうが、自分は「スアン」だと言い、ヒロインは別の部族だと答える。ところがヒロインは母から実際のところを秘して伝えられており、実はヒロインもまたそのスアンの出身だった。娘の彼氏がスアンだと知った父は驚き、彼氏と無理やり二人きりの場を設けて秘密を打ち明け、こっそり娘の出自を伝える。すると彼氏のほうは、ヒロインに理由も告げずに音信を絶ってしまう。

私はてっきり、ヒロインの出生の秘密を知った彼氏が主人公に協力するような流れになると早合点したので、いきなり物語からカットアウトしていった彼氏をめちゃくちゃ薄情なやつだと見なし憤慨していた。この点について、カザフの方と話をする機会があったので訊いてみたら、これはどうやらカザフの婚姻のしきたりに関係しているらしい。カザフスタンには7世代前まで世代を遡る、日本人が一度聞いただけでは理解の難しい複雑な身元確認のルールがあるそうなのだが、要は、同族同士の結婚は近親婚と見なされ忌避されるのである。

上述のシーンには、そういう制度に対する批判的な意図はまったく読み取れない。むしろ父である主人公は、彼氏を排除するという強硬手段を以てしてでも、娘を近親婚の危機から守ったということになっている。突然の出来事に寮の部屋で泣きくれるヒロインを慰めるところまで含めて、主人公が1ポイント稼いだ、というシークエンスなのである。

最初、私が勘違いして「スアン」を「スアル(СУАР。新疆ウイグル自治区)」と誤って伝えたのだが、それはスアンのことでしょう、とあっさり訂正された。個々人の出自としてどんな部族が存在するのか、それがどう婚姻関係に影響するのか、そんなものはカザフ人にとっては当たり前のことであるが、私にとってはこの映画を見なければ到達することがなかったカザフ社会の地盤、レアリアであった。一回1000テンゲ(=300円強)でまたとない勉強の機会になった。俳優はみんな魅力的で、見ていて退屈ではない。前に座っていた男子学生のグループはめちゃめちゃ笑っていた。

*1:だが残念ながら、カザフスタンのほうが広い(面積世界9位)

最速!アルマトイの書店情報を取って出せ

何に比して「最速」なのか、疑問に思う向きもあるだろう。しかしそういうことを考え始めてしまう時点で、あなたはすでに最速から一歩遅れを取っている。現代では、生き馬の目を抜いている人間の戸籍を勝手に抜いておくくらいでないと、最先端の競争からは取り残されていくばかりだ。

昨日まで、ゆえあってカザフスタン共和国アルマトイ(カザフ語読みだと「アルマトゥ」に近いとのこと)という都市に滞在していた。そこで数軒本屋を巡ったので、感想を書き残しておきたい。まず、本をそんなに大量に購入しても持って帰れないので、見つけた店をすべて網羅するようなことは目指さなかった(知らない外国の街の移動はキツい、というのもある)。そして、カザフスタンの書店ではロシア語書籍とカザフ語書籍の棚が分かれているが、筆者が印象を話せるのはロシア語のほうについてのみである。また、そもそも現地に住む人であれば、ネット通販も発達しているし電子書籍もあるしで、もはや紙の本を探しに本屋に足を運ぶということ自体少なくなっている雰囲気はありそうだ。順番はおすすめとかではなく、訪問した順。

 

1. Книжный город

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郊外のショッピングセンター「MEGA」から歩いて5分ほどのところにある。知人に教えていただいて最初に訪れた店だが、結果としては、ここが一番品ぞろえが良かったかもしれない(1階建てで、そこまで大型の店舗ではない)。ただ、街の中心部からはやや離れたところにあるので、タクシーやバスなどの交通に頼らざるを得ないだろう。ちなみにそのショッピングセンターMEGAのフードコートはやたらでかいし、アイスクリームにマシュマロが混ぜ込まれていてもちょもちょした触感でマジで美味かった。

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2. Книжный магазин Кітап, ТОО Березка

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"кітап"というのがカザフ語で「本」らしい。本はかなり雑然と横積みにされており、探しづらいは探しづらい。ただ、奥のほうをよく見ると、いつからここにあるんだみたいな2000年代の赤茶けた本があって、おもしろい(実際数冊古めの本を買った)。小さい店なので店員のおばちゃんに話しかけながら本を探している客などもおり、私も会計の際におすすめの本屋を尋ねた。

 

3. Академкнига

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②の店で教えてもらった店。品ぞろえは、可もなく不可もなくといった具合で、ロシア語の新潮文庫的な古典のシリーズがかなり充実していたように思うが、そこにはさほど魅かれなかった。とか言いつつ、今カードの明細を見たらまあまあな額買っていたようだ(そんなに安くはない)。

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4. Букинист(古書店

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書店を探して地図を検索していたら、古書店が地図上に出てきた。ロシアだとあまりこういうことはなかった気がする(出てくるかもしれないけど)。地下にあるので入り口が見つけづらい。私が本を物色していたら、女子大生くらいの年齢の女性が2人、「こういうところがいいんだよ!」的な会話をしながら店に入ってきた。レコードの心地よいノイズ混じりの音楽が流れる店内は、若い世代にとってはノスタルジックで「映える」空間なのかもしれないし、その2人が単なる古書狂いなのかもしれない。あと、本棚がめちゃくちゃ歪んでいて今にも崩れそうだった。実は滞在中に地震があったのだが、ほんとに崩壊してないだろうか。

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5. Меломан

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個人的に当たりだったのはここ。地下鉄駅「ジュベク・ジョリ」駅のすぐ近く、中心部の繁華な場所に位置し、外から見るとなんとなくLoft的な雑貨屋に見えた(実際おもちゃやゲーム、お菓子なども売っている)のであまり期待せず入店したのだが、書籍コーナーもかなり充実していた。ロシアで「外国の代理人」に指定されているような反体制リベラルの書籍が目立つところに置かれているのも興味深かった。まあ、外国の代理人なんだから、カザフスタンの書店に並べてあるのは道理にかなっていると言えば言える(?)

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あとちょっと驚いたのが、けっこうな面積を取って日本の漫画のロシア語訳が並べてあったこと。向こうの物価からするとかなり高いはずで、そうホイホイ売れるものでもないと思うのだが、それでも私がいる間に若い子たちや子連れの母親がけっこう眺めに来ていた。
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6. Букинист(古書店

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"букинист"というのは「古本屋」という意味で、④もこれも店名というものはないのではないかと思う。カザフ国立大学の東洋学部のあるキャンパス(日本からの留学生たちはこちらにある寮に住んでいる。本キャンパスはやや遠くの別の場所に位置する)の目の前にあるので見つけやすい(Googleマップに出てくる入り口の写真は、今回尋ねたところと違う気がするが、私が別店舗を見落としたのか、移転したのか)。ロシアの古典文学の全集など、古めの本多数。私が買ったものに限っては価格は安かった。

 

7. Алматыкітап

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ここはお店自体は新しくてきれいだったものの、たまたま見つけて入ったのが旅程の後のほうだったからかもしれないが、目ぼしいものはなく何も買わなかった。

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ナマスカラーム、親しからむ男女

カレー屋で隣の席に、友人以上恋人未満みたいな男女が座っている。男がずっと仕事の苦労話や心構えを語り、女が半分くらい敬語を混ぜながら応答している。これは愛なのだろうか?隣席のカップルの会話など聞くな、という話だが、聞くともなくすべて耳に入ってくる。

かたや俺はというと、インド人の店員さんに「付け合わせのキャベツは米に混ぜ込んでカレーといっしょに食うとうまい」と教えてもらいながら、ひとりで昼からビールを飲んでいる。彼我の差。俺には語るべき仕事論などないから、星や鳥や花や芋や出没母音の話をしよう。

渋谷で『ノスタルジア』を見る。学生のときにDVDを借りて見て以来だ。当時はなにもわからなかったが、時を経て、国を越え、知恵を増し、やっぱり何もわからなかった。分からな過ぎてポスターを買ってしまった。ミーハー。

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足立のすべて

この人どっかで見たなあ…最近なあ…と思いながら2時間の映画を見る。『王国(あるいはその家について)』に出ていた足立智充さんという方だった。売れっ子だ。

昨年見た同じ監督の『ケイコ 目を澄ませて』が抜群に良く、『きみの鳥はうたえる』もけっこう良かったので見たが、なかなか良かった。優しい人しか出てこない窮屈さのようなものは、『カモン カモン』を見た時の印象に近い。病気で休職したりなんだりしている20代の若者が東京で住むにしてはあまりに広い家に住んでいるなと思ったが、ワンルームで映画を撮るのってひょっとして難しいのだろうか。

最近見た『ガザの美容室』では、狭くて空調も効いていない美容室の中でみんなイライラしていて、少なくともその場に限っては人に優しくしている余裕がなさそうな人ばかり出てくるけど、それがかえって良かった。それが普通だから。

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王国(あるいは鮮魚の天ぷらについて)

昼時を逃して、中途半端な時間でも開いている飲食店を検索していたら、「金沢には天ぷら屋がない」という、天ぷらの智恵子抄みたいな書き込みをGoogle Mapに見つけた。ほんとのところはどうなのか、数を数えたわけではないから分からないが、実感としてはたしかにそうかもしれないと思う。すぐそこの海で獲れたばかりの魚介類に厚く衣をまとわせ、香りの強い油でカリカリに揚げる必要などないということだろうか。それならば道理だ。「天ぷらにすれば大抵の葉っぱは食える」という父の言葉が谺する。

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しかし天ぷらを食べたい午後3時もある。デパートのレストラン街に見つけた、30年前の量産型温泉宿の食堂をそっくりそのまま解凍してきたような殺風景なレストランで、河豚とノドグロの天丼を食べた。30年前ですら平成なのが本当に怖い。

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そんな魚介王国・石川で何をしていたかと言うと、『王国(あるいはその家について)』を見ていた。


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全体として、映画を発声へ、台本へ、稽古へ、撮影へと分解し還元し切り縮めていこうとするような「アンチ映画」感が面白かった。脚本の高橋知由氏は、濱口竜介『不気味なものの肌に触れる』の脚本も担当していたけど、2作品は「濁流」というモチーフを挟んで世界を反転させたような格好になっている。『不気味な―』のほうは、千尋染谷将太)と直也(石田法嗣)がダンスを通じて無言の・身体的つながりを構築しており、その間に現れた異物である直也の彼女が排除される(続編の『FLOODS』は本当に作られるのでしょうか)。「王国」の建国を通じて通じ合っていた亜希と野土香の間に野土香の家族が現れ、それが排除されるのが『王国』。

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見たことのない演出の作品だし、反復に次ぐ反復を見せられても2時間半を長いとは感じなかったが、題名のつけ方とか、「決定的に損なわれている」みたいな言葉選びとか、人間の情念を暗い水の流れ(暗渠、下水道、濁った河川)に象徴させる安易な比喩とか、あるいは(!)清潔な日常に忍び寄る「ワタナベノボル」的不安とか、そこかしこに感じられる村上春樹っぽさはなんだったのだろう。実際に村上春樹から影響を受けているかどうかより、この世代の書き手が少し文学的なアクセルを踏み込むと、こちら側で「っぽさ」に回収してしまうことのほうが重要な論点なのかもしれないが。

金沢は、21世紀美術館が展示を停止しているくらいで、表向き観光地としての賑わいを取り戻していて、曰く言い難い思いに駆られた。これは2011年3月に盛岡で感じた感覚に似る。

体には蜂蜜、飲酒運転には厳罰

「今やキルギス人が旦那ってわけだ。連中はごろごろして、クムス[馬乳酒]を飲んでるだけ。連中の畑仕事はロシア人が半分肩代わりさ」*1

(T・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』より)

前作の『馬を放つ』より好きだったかもしれない。主人公が水色の戸の前に座って、ラジオ放送が流れているシーンとか。

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出稼ぎに行った先のロシアでなんらかの「事故」に遭い、記憶も言葉も失ってしまった主人公は、息子に連れられてキルギスの家族のもとに帰ってくるが、帰ってきた先では息子に止められるのも聞かずひたすら村中のゴミを集め続ける。「まだロシアにいるつもりなのか!」と息子に怒鳴られるのは、彼がロシアでゴミ収集の仕事をしていたからなのか?

以前住んでいたモスクワのアパートでは(捨てる側にとっては楽なことだが)燃えるものも燃えないものも、とにかくダストシュートに放り込んでしまえばそれで終いだった。こちらが気に病んだところで仕方がない、分別など端から求められていないのだ。

ある時ふと窓の外を見下ろすと、おそらくは中央アジア等から来たのであろう(スラヴ系ではなさそうな)人々が、ありとあらゆる種類のゴミの混合物を収集していた。そうかあ、とだけ思って部屋に引っ込んだ。

のちに中央アジアの人と個人的に知り合ったとき、モスクワは〈嫌なところ〉なのだ、とはっきり伝えられたことがある。ゴミ収集員やレジ打ちの人たち、国はどこ?と声をかけてきたシャウルマ(ケバブ)屋の店員のことが思い起こされた。客としてロシアに滞在していた私の経験は、そういう話を聞きでもしない限り根っこのところから相対化はされなかっただろうと思う。

ロシアからの、とは限らないが、本作の主題が「キルギス的なるもの」への帰還だというのは当たっているだろう。『馬を放つ』が言葉にした強烈なナショナリズムは今作では抑えられている(なにせ主人公は一言も発さない)し、映画としての良さは、かならずしもそうした思想が前面に押し出されていないシーンにより現れ出ているとも思うが。主人公の旧友のじいさんたちが集まって酒を飲んだり、主人公を元妻に引き合わせようとしたりするシーンは、なんかよかった。彼らが開始5分で飲酒運転を始めたのには笑った。

前作でもそうだったが、本作にも教条主義的なイスラム教徒への懐疑が織り込まれている*2。主人公が死んだと思い、村の粗暴な金持ち(レクサスに乗ってる)と再婚してしまった元妻が、義母と揃いの厳格なイスラム教徒の着衣に身を包んでいるのが(その元妻の服装の変化も含めて)象徴的だ。無知ゆえに私などもつい「イスラム系」とひとくくりにしてしまうが、キルギスにとってみればイスラームもまた外来の宗教なのであって、自然と言えば自然な流れには見える。もっとも「体には蜂蜜、魂にはコーラン」と語るおだやかな導師は肯定的な人物として描かれているので、あくまでも監督が考える限りでの、本来の遊牧民的自由を束縛する融通の利かなさが批判されているのだろうとは思う。

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ちなみに最近は、『ハズビン・ホテル』の第1シリーズ(計8話)も見た。なんとなく『純潔のマリア』を思い出していた。チャーリーの「てきゅてきゅてきゅてきゅ!」がかわいかった。

*1:テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』半谷史郎監修、荒井幸康・渋谷謙二郎・地田徹朗・吉村貴之訳、明石書店、2011年、96頁。

*2:このあたりは、以前目に入った専門家の方の発言を参考にさせていただいた。https://x.com/noppo6/status/1686641498744672256?s=20