濱口竜介は「資本主義」や「ケア」や「対話」や「クィア」に真っ直ぐで眩しい。世界的映画監督を見つめると眩しいというのは本来、星がきれいだとか漬物がしょっぱいとかいうのと同程度に自然なことなのかもしれないが、最近じゃ星は街灯りで見えないし、漬物は甘くて保存が効かないものばかりだ。なんの話なのか?

ここがタルコフスキーだどこが侯孝賢だあそこがソクーロフだとやっていけば固有名詞のストックが切れるまで続くのだろう。私はシネフィルではないのでどういう風にするとそういうのが最終的に適切な配置に収まるのかはよく分かっていない。二人の主人公が劇場を出て川辺のほうへと歩いていく間にゆっくりと日が暮れていく長回しのシーンや、途中で挟まれる劇中劇などが『親密さ』を思わせたが、それは単に私が濱口作品の中で『親密さ』が好きだからというだけだ。
2022年に、濱口作品によく登場する「『傷つき/ケア』みたいな問題設定には正直あまり興味がな」いと書いていた。現時点でもそこに大きな変化はない(私の弱さは私のものなので)。映画に対してシネフィル的な興味もテーマ的な興味もないなら、私は一体何を彼の映画に見ているのか? 今回すこし理解できたような気がするのは、どの濱口作品にも一作品に一つは出てくる(ような気がする)、見ているとこっちがいたたまれなくなる(ぼろ切れほど使い古された言葉で言えば「共感性羞恥」を呼び起こす)ある種の性質を帯びたシーンは、別に観客を気づまりにさせてやろうという意地の悪さから挿入されているのではなく、単に監督がものすごく真剣に映画によって何か物事を好転させようとしていて、時に空回りしたりもするが、とはいえそれはあまりに真剣であるがゆえにその真剣さを私が真正面から受け止められていないことでそう思えるだけで、悪いのは作品そのものではなく卑小な私のほうなのではないか、まあそういったようなこと。
大学を卒業後、商業映画の助監督になって、学生時代に多くの時間を費やした映画や音楽の経験が、撮影現場の実務においては一切、役に立たないことに気づかずにはいられなかった。時に尻を蹴られつつ「映画や音楽は自分を助けてくれない」という事実に絶望的な気分にもなった。自分が大事だと思い、何なら人生の時間を捧げたものが、自分を一切助けてくれないことは、心の底から苦しい体験でもあった。
それから時間を重ね、今はどちらかと言えば全く逆のことを確信している。映画や音楽は人が生きることを助ける。最良のそれらは常に、人が真摯に生きたことの証拠であるからだ。記録機械であるカメラ(やマイク)はその事実を確かに記録して、何度でも再生する。疑いようのない証を見て、聞いたことが、受け取った者の基底において生きることを励ます。確信を持ってそう言えるのは、それが僕自身において起きたことだからだ。
(濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること:映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、8頁。)
2015年に出た『カメラの前で演じること』という本の冒頭には、代表作『ハッピーアワー』の撮影に際して濱口監督が考えていたこと、実際に取り組んだことの説明を通じた映画論・制作論が収録されているが、そこに監督が演じることと「恥」の関係について語っている箇所がある。東日本大震災の直後に被災地に入りドキュメンタリーを制作することになった監督は、東北記録映画第三作目『うたうひと』の出演者となる民話の語り部=聞き手の小野和子氏から受け取った「恥は自分自身を吟味するもの」*1という命題について考え始める。ここで展開される議論の肝をうまく抽出できる気がしないので細かい内容については実際に本を読んでいただくとして、この「恥」論を読んで感じたのは、ふだん我々が映画や演劇やアニメを通して頻繁に見聞きすることになる大袈裟で誇張された演技、まさに演技といったら〈あれ〉と名指されるような泣き、笑い、怒り、叫びその他の感情に満ちた身体の操作、〈あれ〉は実は、観客に対するある種の配慮と思いやりに満ちたものなのではないかということだ。あの類いの演技は、その演技が誇張であること、フィクションであること、嘘であることを十全に観客に示し、劇場の外という「現実」への出口を目配せによって示しながら、演技が描き出すのは偽物の社会であり偽物の現実なのだから、ここからなにかを本当の社会、本当の現実に持って帰る責務なんてないんですよ(まあ、持って帰りたければ止めはしませんけど、無理なさらず)といって観客をもてなし、免責してくれている。要するに、観客が必要以上にフィクションから影響を受けて現実社会で恥をかかないように、前もって演者たちが恥を捨て恥知らずになりそれによって恥をかいてくれている。
濱口はそれを許容しない。演者を道化として扱わない。人一人に元から自然に備わる量の適切な恥の観念を保持しカメラの前で演じることを時にためらう一人の人間として扱い続ける。そういう人々の演技はややもすると素人臭く見え、だから時として観客に恥じらいを覚えさせるのだが、その感覚は、演者がスクリーンの表面に塗りたくられた光と音の混ぜ物、映画館の外で外気と太陽光に晒されればたちまち掻き消えてしまう幻などではなく、実際に生きている人間なのだと避けようなく突きつけられている証拠にほかならない。そこで我々観客は、映画館の外に出ても、あるいはテレビやパソコンの画面を消しても、現実社会にひとつやふたつ映画から受け取ったものを持ち帰り、持ち続けることを要求される。人と接するというのはそういうことだからだ。『急に具合が悪くなる』のテーマの一つである「社会の内と外の区別をなくすこと」はここから帰結するだろう。
自分はずっと、塊(?)としての濱口作品それ自体には魅力を感じてきた一方、そこに登場するオープンダイアローグ的な対話シーンや、身体接触や自己開示を伴うワークショップなどのシーンに、何とはなしの「イタさ」、はっきり言ってしまうとカルトじみた雰囲気を感じ、どこか乗り切れないできた。上に述べたようにその乗り切れなさは解消されてはいないのだが、今では少なくともその異和の出処は理解している。私はあまり本気で変容したくない。要は、政治思想の右左とはまた別のところで根っこが保守的なのだ。
『急に具合が悪くなる』から打ち寄せる善意の波濤、さすがに劇中のあらゆることが登場人物たちの善意によってうまく回りすぎなのではないかという感覚は、濱口と関係の深い三宅唱の『夜明けのすべて』を見た時に感じた感覚に近かった(そして『夜明けのすべて』は正直あまりしっくりこない)。しかし『急に具合が悪くなる』の場合、「それでもいいだろう?」という圧に押し負かされた感じがあった。二人の女性主人公については言うまでもないこととして、清宮吾朗を演じる長塚京三、ベテラン看護師ソフィーを演じるマリー・ビュネルの演技、これが素晴らしかった。星は昏く、漬物は腐る世界で、「善さ」を描くこと。

そういえば先日『シンプル・アクシデント/偶然』も見た。序盤、私がイラン情勢に不案内ということもあって何をやってるのかが微妙に分からず、軽くウトゥ・トゥ・ウトゥしてしまったが、終盤は強く引き込まれた。巧みに「悪意」を描く優れた映画だった。

*1:濱口竜介、野原位、高橋知由『カメラの前で演じること:映画「ハッピーアワー」テキスト集成』左右社、2015年、50頁。
































































