確定申告を考え出したやつは本作を見て出直したほうがいい

映画『コンパートメント№6』の冒頭、主人公のラウラがモスクワで参加しているパーティで、参加者のひとりがペレーヴィン『チャパーエフと空虚』(1996)の一節を引用する。これは小説の主人公ピョートル・プストタが、彼の担当医である精神科医チムール・チムーロヴィチに対し「逃げようとすればするほど僕は共同体に絡めとられていく」と語り、その意味を問われて説明を続けるシーンだ。

「他人から逃げようとする人間は、人生を通してつねに他人が歩く不安定な道に沿って歩まなくてはならない――つまり逃げるのをやめないかぎり。逃げるときにはっきりと自覚しておくべきは行き先ではなく、何から*1逃げているかということです("Для бегства нужно твердо знать не то, куда бежишь, а откуда")だから逃亡者はつねにみずからの牢獄を眼前に見つづける」

 

ペレーヴィン『チャパーエフと空虚』(三浦岳訳)、群像社、2007年、52‐53頁。

引用した翻訳の調子だと、逃げるときは何から逃げているかきちんと把握していないとダメだぜ!というアドバイスのようなニュアンスも出ているが、「牢獄」云々のくだりからも分かるように、どちらかというとここでピョートルは、何かから逃げよう逃げようと思っても、そもそも「逃げる」という姿勢を取るかぎり、その原因に縛られ続けることになるというジレンマについて語っている。我々の日常においても、憎むべきものを憎み過ぎるあまり、かえってそれに心を囚われてしまっているような人や状況については容易に想像がつくが、ともあれ、小説中のこの一節がさながらエピグラフのようにわざわざ映画の観客に向けられる意図には注意を払ってみてもいいかもしれない。

パーティ会場に集う人々は、ラウラの同性の恋人である大学教員のイリーナの知り合いで、おそらくは一定程度以上の教養の持ち主たちであり、どこかから警句や名言を引いてきてその出典を当てるという(趣味がいいんだか俗っぽいんだかよくわからない)ゲームに興じている。そこで引かれるのが上のペレーヴィンの文章(ともうひとつはマリリン・モンローの発言)なのだが、モスクワ留学中のフィンランド人であるラウラにとって、最近出版されたらしいこの小説*2は読んだことのないもので(彼女は著名なロシアの詩人アフマートヴァの正しい発音を知らずに「アフマトーヴァ」と発音して訂正されており、さほど文学に通暁しているわけではない様子がうかがえる)、読んだ?と訊かれても曖昧な返事でお茶を濁すしかない。非母語で交わされる知的な会話は、イリーナが住まうスノッブな空間へラウラが参入することを阻む障壁として機能している。

体の関係はかろうじて続いていても、イリーナは明らかにラウラに対する興味を失っており、本来は2人で赴くはずだったムールマンスクの遺跡見学を、仕事を理由にキャンセルする。スタートの時点ですでにモスクワはラウラにとって居心地のいい場所ではなくなりつつあった。とはいえひとり乗り込んだ寝台列車の車内、本来はイリーナが座るべき席に腰を下ろす無教養で無作法な炭鉱労働者リョーハの振る舞いに嫌気がさし、ペテルブルクにたどり着いた時点でラウラは一旦モスクワに引き返そうとする。だが、公衆電話から連絡をしたイリーナの素っ気ない対応を受け、すくなくとも「イリーナの待つ」モスクワにも居場所はないと悟ったかのように、リョーハのいる寝台に引き返す。「彼女(ラウラ:引用者註)が逃避している複雑な状況を見せたかった」*3と監督が語っている点を考えあわせれば確実だが、つまるところこの映画はムールマンスク〈への〉旅路である以上に、モスクワ〈からの〉逃避として当初は進行するのである。

ラウラは道中つねにイリーナ、そしてビデオカメラに記録されたモスクワの華やかな思い出に後ろ髪を引かれており、またイリーナへのビデオレターをそのカメラに収め続けているが、あるきっかけで自身の思い出が詰まったビデオカメラを失う。しかしそれを奇貨として、彼女はイリーナに対する実りのない愛情を客観的にとらえ直していくことになる。ラウラが憧れながらもその傍らに居場所を得られなかった、表向きは柔和でフレンドリーだが実のところ言葉や教養によって壁をしっかりと作り上げ、肝心なところで他者を拒絶するイリーナと、言い訳の余地なく無遠慮だが、それが他人との間に境界を定めないことで発生する弊害であり、したがって他者に対して無尽蔵の奉仕の精神を発揮することもあるリョーハという対比はあからさま過ぎるほど効いていて、映画の中にしっかりしたコントラストを作り出している。モスクワがもたらす所在なさから逃げるように列車に乗ったラウラは、リョーハの底抜けの善良さに触れ、自身の道行きを遂には「逃走」、後退(モスクワからペテルブルク、ペトロザヴォーツクを経てムールマンスクへと向かう路線は、ラウラの母国であるフィンランドの国境の東側を沿うように進むルートで、ある意味ではモスクワから故郷の方角へ逃れ去っていく旅路と解釈できなくもない)ではなく十全な意味での「旅」、前進として設定しなおす。ムールマンスク到着後トラブルに見舞われ、ラウラ本人がもはや諦めかけた旅の本来の目的であるペトログリフ(古代の岩絵)見学を、考古学に何の興味もないリョーハが意地でも果たさせようとする終盤の展開は、過去に規定された後退が「目的=未来」に規定される前進に転ずる物語をまさに象徴していると言えるだろう。

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本作の監督はフィンランド人ながら、舞台はずっとロシア国内で、会話もほとんどはロシア語で進む。フィンランド語の会話はラウラが列車でたまたま出会うフィンランド人旅行者と交わされるくらいだ。そういった意味ではかなりしっかり「ロシア的」映画で、本作ではロシアの良さとダメさが絶妙なバランスと解像度で表現されている。だから正直、見ていて普通に不快さや気づまりを感じるシーン(たとえばラウラとはじめて出会ったときのリョーハの振舞いは、現代日本だったら警察沙汰になっていてもおかしくない)も多々あったように思うが、SNS上の評判を見ていると意外とみんなそういうところは気にならないみたいで、私が勝手に身内の恥を晒されているような気分になっていただけだろうか。

今般の戦争のせいで、こうした映画をロシアでもう一度撮影することは不可能になったのかもしれないという監督の悲痛な叫びが聞こえてきている。別になにも、こうした物語がロシアで撮られなくてはならないと主張する必然性もないが、願わくばいつか(数十年を経た後だとしても)もう一度くらい、こうしたロシア的な良心の表現に出くわしたいものだと思う。ラストのカットがどのようなものだったかしっかり覚えている映画って私にはかなり稀なのだが、この映画のラストシーンは非常に爽快で気が利いており、好みだ。*4

*1:直訳すれば「どこから」だが。

*2:物語の舞台は1990年代のロシアということだが、『チャパーエフと空虚』が出版されたのは1996年なので、厳密には96~99年のどこかということになろう。

*3:映画パンフレット6頁のインタビュー。

*4:ちなみにペレーヴィンには「黄色い矢」という、空想上の寝台列車を舞台にした小説もあり、監督は影響を受けていたりしないのかなあと想像している。