生、はり倒す

函館でハリストス正教会を見学した。これを目的に北海道に行ったわけではないが、生きる目的だって覚束ないし、問題ないだろう。

そこでイコンを見ていてふと思い出したのだが、3月にカザフスタンアルマトイに行った際、御茶ノ水ニコライ堂の系列の協会があるよ、と誰かに言われ、町中にある正教会に赴いたのだった。

「ニコーリスキー・サボール」(つまりニコライ堂)というその教会は、目立たないほど小さいわけではないが、町の中心部にあって半ば観光地と化しているゼンコフ教会と比べるとこじんまりしていて、地元の正教徒たちの祈りの場としての機能が中心のようである。「系列」って、家系ラーメンじゃないんだからと思いながら足を延ばすと、門の前で明らかに日本人と思しき若者たちが喋っている。

先に内部を見学してきたというその学生たちによると、教会のなかに松と富士山を背景にした聖人の絵があったのだが、それが何なのかは、言葉も分からないし聞けずに終わったということだった。そこで私(異教徒)は、一肌脱いだろかとその若者たち(異教徒)を引き連れ教会に足を踏み入れた。

なるほどたしかにある。

今まさに集会の準備をしているらしき聖職者に声をかけて質問すると、案の定忙しかったのかおざなりな返答を受けた。当たり前だ。すると代わりに、周りからわらわらとおばちゃんたちが寄ってきて解説を始めてくれた。日本から来たのか、これはあんたたちの聖人だ、ニコライだと。

もちろんニコライ・カサートキンの存在自体は知っているが、恥ずかしながら御茶ノ水のほうのニコライ堂には足を踏み入れたことすらない弱卒なので、カサートキン氏が「日本のニコライ(Николай Японский)」という名で列聖されていることなど知りもしなかった。ともあれ、おばちゃんたちの助力により、日本の若者たちの疑問は氷解したわけである。

その話を函館のほうの受付のおばちゃんにしたら、ああ、それはひょっとすると日本から贈られたものかもしれませんね、と言っていた。そういうこともあるんだろうか。ググったら、マジで我々が見たものとそっくり同じ構図のニコライ像が売られているので、私には何も分からない。生きる目的さえも。

帰りに山下りんのポストカードセットを買った。まあ、山下りんのポストカードが戦争遂行に加担するということもないだろう、そう信じたい。

ちなみに、函館では函館ラーメンを食べた。これこそが「生」であり「目的」であり「意味」であっただろう。