「君はなんだか子供っぽい考え方をしているな。生活がある。そしてそこに芸術があり、創造がある。ソッツ・アートがそこにあり、コンセプチュアリズムがそこにある。モダンがそこにあり、ポストモダンがそこにある。僕は昔から、こういうものたちを生活と混同しないようにしている。僕には妻がいるし、子供ももうすぐ産まれる ― これがね、アンドレイ、真面目ということなんだ」
――ヴィクトル・ペレーヴィン「黄色い矢」より
アルセーニー・コトフ『ソ連の見捨てられた町』という本を買った。
プリピャチ、バイコヌール、ノリリスク、マガダン、ヴォルクタほかを著者がめぐった記録だそうだが、届いたばかりなのでまだじっくり読めてはいない。ぱらぱらとめくった印象では、写真はきれいだし、エッセイの部分もなかなかおもしろそうだ。表紙は、コミ共和国ヴォルガショルではじめて石炭が採掘されてから10周年を記念し1985年に建てられた〈石炭の碑〉らしい。
日本ではすでにロシア人写真家ラナ・サトルによる『旧ソ連遺産』が出ているし、そのほかにもロベルト・コンテ&ステファノ・ぺレゴ『ソビエトアジアの建築物』、星野藍『旧共産遺産』『ソ連のバス停』が、またバス停については上述の書籍の元ネタと思われる『Soviet Bus Stops』がある。この地域の建築(廃墟)の人気は洋の東西を問わず根強いようだ。
買っておいてなんだが、いわゆる廃墟趣味というものと窃視症との間の明確な線引きが私にはできていなくて、それをうしろめたさ抜きに楽しむ回路は頭のなかで完成していない。他人の生活を―たとえそれが痕跡であるにせよ―一方的に覗き見て無事では済まないことは、安部公房『箱男』が伝えるところだ。
生活は見世物ではないし、もっと言うと、見世物として作られた舞台すらその裏口は生活につながっている。たとえば上の写真の少年(?)がこれからどこに行くのか、学校に向かうのか、それとも帰り道か、友達の家に遊びに行くのか、この日に何を食べたのかあるいは食べるのか、算数は得意か、体育は得意か、好きな人はいるのか、毎日は退屈か、目の前の丸い屋根を好きか嫌いか、あるいはもはや背景の一部に溶け込んで目に留めてすらいないのか等々の疑問が、この写真集を彩る奇抜な構造の建築物より私には重要で、そんな言い訳をしたところでこれが覗きであることに変わりはないのだが、だからせめてもの復讐としてこの少年は、写真の美を台無しにすることになっても、カメラに向かってピースをしてやるべきだったのだ。