俺の鳥もうたえる

数知れない鳥の羽ばたきが、かれを眼ざめさせた。

 

大江健三郎「鳥」

家の窓から外を眺めると、眼下に4車線ある広めの道路が走っている。そして道沿いには、運動不足の大学院生(フラスコと中公新書より重いものを持てない)くらい細く頼りない街路樹が等間隔に生えている。もう少しこんもりと枝葉が茂っていてくれればいいのにとは思いつつ、やはりないよりはいい。大学院生もいないよりはいたほうがいいように。

さてその木々はどうやら鳥たちの住処になっているらしく、夕方になるとどこからか帰宅した鳥たちがけたたましく鳴いている。鳴くだけならいいが、どうやら排泄物の害もあるようだ。そのため市はどうにか鳥たちを追い払おうと、定期的に枝葉をばっさり払ったり、謎の音が出る機械を取り付けたりしている。そのためにこの街路樹はたいして日除けの用を成さぬまま、細くか弱くいることを余儀なくされている。

市の作戦が功を奏したというべきなのか、近ごろ、私の家の窓から見て一番近くの木に、他の住居を追い出された鳥たちが引っ越してきた。彼らは夜な夜な大勢で鳴き暮らしている。大江健三郎の短編に、引きこもりの男の頭のなかでいつしか鳥の鳴き声が響き始めるというものがあったが、私も人と喋らな過ぎて頭がおかしくなったのかと思った。

ところで先日アルマトイの町の中心部を歩いていて、はじめは何とも思っていなかったのだが、ふと「町の緑」が意識のなかで前景化してきた。一度気づくと、異様に(という言い方もおかしいが)緑が多い。場所によってはほぼ枝葉がトンネルと化しているような道も見かけた。

日本の都市計画に対する批判として、広場、街路樹、ベンチ、ゴミ箱等々の少なさを糾弾する声を聞くことが最近多いが、たしかに公園と緑とベンチがうなるほどある町をぶらぶらしてから帰ってくると、一理ある気がしてしまう。まあ、気候からなにから全く異なる国同士で比べても仕方のないことなのかもしれないが。

ただ実際のところ、これだけ木が生えていたら鳥が営巣し放題なんてことにならないんだろうか。多くのジョウビタキルリビタキ、シギ、サギ、コゲラアカゲラ、ヨダカ、カワセミウミネコブッポウソウライチョウ、フラミンゴ、ペリカンメリケン落研、桃缶、弾丸たちが、アルマトイの木々の上で鳴き続けるなんてことに。

 

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渋谷のユーロスペースでやっている「ジョージア映画祭」で、1作品、ラナ・ゴゴべリゼの『渦巻』だけ見ることができた。すばらしかった。

すばらしいぜと思いつつ、結局こういった特集は東京でしかやらず、今回見に行った回は、時間帯のせいもあったのかもしれないが、観客の8割9割をご老人が占めているのである。なら地方の若者にとって、ラナ・ゴゴべリゼなんて存在しないも同然だ。一点物の美術品のようにしてしか触れられない複製芸術とは。

「地方には文化がない」という怨嗟めいた声も聞こえてくるインターネットだが、仮に地方と文化が対立する関係にあるのだとして、先に消えるのは文化のほうだろう。そういうのはもちろんカッコつきの「文化」でしかないけど。首から『花咲くころ』のDVD(をかたどった飴)を大量にぶら下げて街で売り歩こうかな。市はそんな私を追い払うために、大きな音の出る機械などを持ち出し、八方手を尽くすだろう。

花咲くころ [DVD]

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