何の踊りの時間なんだ

ブレイクダンス社会主義化するぞ!」には笑ってしまったが、特に後半にいたってはコメディというより、ロシア映画の『LETO』や『スチリャーギ』に漂う哀しみを彷彿とさせる映画だった。


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「本当はこんなことはなかったのだけど」という苦笑いを挟むことだけが、社会主義時代の灰色の生活をカラーで想起するためのよすがなのか。要は一種の自虐芸だが、それは「そんなに卑下することないよ」と言ってくれる人が現れるところまでがワンセットだ。果たせるかな、無責任な外の人間は、パトカーの屋根で踊り出す東ドイツの若者も、列車の車両で大暴れするソ連の若者も本当は存在せず、スチリャーギたちの着ていた服が本当は映画ほどには鮮やかでなかったのだとしても、素直に肯定すべきものもそこにあったのでは、などと慰めたくもなってしまう。

「こんなことはありませんでした」

もちろんこれらの映画は、「そこに本当はあってほしかったもの」を描くことによって、外からは灰色にしか見えない社会の内面に滾る熱情をうまく描き出してはいる(『ブレイク・ビーターズ』は、エンタメとしては平凡な仕上がりではあるが)。当事者は、こういうねじれ抜きに過去を語る回路を、今のところ持てていないのかもしれない。

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似たテーマの映画に韓国映画『スウィングキッズ』がある。1951年、朝鮮戦争のさなか、北朝鮮の捕虜たちが韓国側の収容所でアメリカ人ダンサーと出会い、タップダンスに魅せられていく物語。ブレイクダンスだろうがロックミュージックだろうがブギウギだろうがタップダンスだろうが、映画の中では社会主義陣営の人々は常に西側(というかだいたいアメリカ)の歌や踊りに魅せられ、全身で自由を表現することになっている。逆に西側の人間が社会主義の思想に魅せられ、全霊で資本家への怒りを表現するエンタメ映画は今のところ見たことがない(いや、知らないだけであるのかもしれないが)。そう、このように、世界は不平等なのである(!?)


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身体的な表現はイデオロギー的な対立を超える、というテーマであれば、ちょうど昨日見たインドの『ストリートダンサー』や、もっと言えば大ヒット作『RRR』も同じようなものだ(『RRR』の〈ナートゥ〉に『バジュランギおじさんと、小さな迷子』の思想を掛け合わせたのが『ストリートダンサー』だという見方もできる)。


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ところで、『ブレイク・ビーターズ』は『僕たちは希望という名の列車に乗った』を思い出しながら見ていたのだが、仲間のうちのひとりは体制側に寝返る、というのは、東ドイツもののお約束かなんかなのだろうか。一体誰との約束なんだ。


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