そして駆け出す

真面目以外とりえのない高校生活。

したがって、私が深夜アニメというものを本格的に見始めたのは、大学合格を機に念願かなって上京し、一人暮らしを始めてからのことだ。取り壊されて今はもうない「ユー西畑」荘の畳部屋に敷いた布団に寝転がりながら、地元では映らないテレビ神奈川やらテレ玉やらをザッピングしていると、不思議なCMが目に留まる。夕暮れの電車の車内にたたずむ女の子。アニメのCMらしいのになぜか実写だ。ひとつもわからない作品の内容。知らない声優のか細い声が読み上げるタイトル。はじめてそれを目にした19歳の私の体に走ったあの甘やかなオレンジ色の電流が私の脳の蛋白質を不可逆に一部変質させたことの意味や痛みや喜びが、あなたにわかるだろうか?

だが別にいま私は『涼宮ハルヒの憂鬱』の思い出話をしたいわけではない。そこから大学院生時代まで続く私のアニメ生活において『涼宮ハルヒの憂鬱』が踏切版の役割を果たしたとするなら、ほかならぬ跳び箱の役割を果たした(?)アニメ、それが『true tears』であった。それが重要である。もうひとつ重要なことがあり、タイトルの冒頭はまぎれもなく小文字の"t"。憶えておくといい。

あの日私が『true tears』を見始めたまさにその事実と、富山で働き出すことになった2022年10月3日の間を、一本の線が途切れなくつないでいる。富山の造り酒屋の息子が周囲の女の子たちと織りなす、お世辞にも爽やかとは言いがたい昼ドラじみた青春恋愛群像劇が、私を富山へ導いた。

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今回富山の大学で働くことになり、ある程度責任というものを自覚しなくてはいけない立場になった。今般、SNSをはじめとするネット上で上のようなおふざけの文章を公開し続けることは、もはやリスクでしかないのではないかと考えているところもあり、今後当ブログを更新し続けるかどうかは正直迷っている。そもそも、ブログのタイトルからして人に読んでもらおうという気持ちが感じられない。

だが、「踏み出せるならきっと大丈夫」と教えてくれたのは『true tears』である。その教えに従い、たしかに私は最初の一歩を踏み出した。ということは、いずれ二歩目以降を踏み出すこともほぼ確定しているということになる。私の帰りを待つ者はいるだろうか。

 

半分だけでもここならば進んでいける。

 

まっさらな空どこまでも連れて、限りなく舞い上がるよ。

 

世間の炎に焼かれても、己を包む炎で泥舟を焼き固めて海を渡るタヌキ。

 

そういうものに、私は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

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