あなたがたがいてくれること、いてくれたこと、そしてこれからもいてくれるであろうことに!

未来へとふたりのWonder tale
始まりがこわいのにとまらない

 

田村ゆかり「W: Wonder tale」

渋谷のシアター・イメージフォーラムというのは不思議な映画館で、「不思議」というのはこれでもかなり曖昧な言い方を心がけているのだが、ほかの映画館ではあまり見ない事態に遭遇する確率が高い印象を持っている。そもそも多くのお客さんをさばくために設計されたのではないらしいとか、他の映画館ではおいそれと上映できない長尺の外国映画を積極的に上映してくれている(これ自体は本当にありがたい)とか、そういったいくつかの要因が作用しているのかもしれないなと思う。

昨年12月にセルゲイ・ロズニツァ『ミスター・ランズベルギス』を見たときは、4時間に及ぶ大作を休憩なしで見せられて観客みな集中力が切れたのか、隣の老夫婦はポリ袋からガサゴソと何かひっきりなしに食っているし、映画の終盤も終盤というところで、我慢できなかったのであろうトイレに立った男性が、用を済ませて帰ってこようとしたところ劇場のドアが重くて開けられなかったらしく(シネフィルは惰弱)、延々とドアをノックし続けるものだから劇場内に鈍い打撃音が響き渡るし、開演前に塩食ってるやつはいるし(これは集中力どうこうというより単なる奇行だが、彼なりの長尺映画攻略法だったのかもしれない)で、なんかすごかった。ロズニツァ作品で集中力が続かないのは私も同じなので、怒りが湧くというのとはまあちょっと違うが。

しかしめげずに先日ふたたび遠く東京まで足を延ばし*1、同じくロズニツァ『新生ロシア1991』を見た(『ミスター・ランズベルギス』の半券をお持ちのあなたならなんと!1600円に割引です)。こちらは公開からだいぶ間が空いたということもあってか場内に客はまばらで、また作品も70分程度と短めであったため、前段のランズベルギス的事案は発生せずゆったり見終えることができた。幸運にも。

原題は「出来事」。なぜ。

国葬』『粛清裁判』『アウステルリッツ』はまさに「〈群衆〉ドキュメンタリー3選」と銘打たれて公開されたけれど、それ以外のロズニツァ作品にしても順に見ていけば、彼が一貫して強い興味を示し続けているのが、集団となった時の人間が見せる動きであることに誰しも気づく*2。『国葬』にも『粛清裁判』にも『アウステルリッツ』にも『バビ・ヤール』にも『新生ロシア1991』にも、なんなら劇映画である『ドンバス』においても(NHKでも取り上げられたウクライナ兵に対するリンチシーンに顕著だが)、物語の核となる主人公はおらず、そこでは群れとなった人間の動きこそが主役となっている。そうして蠢いている群衆が、顔を持たない制御不能のアメーバ状のひとかたまりなのか、あるいは「群知能」という言葉で比喩的に呼びうる何かに昇華しているのかは、時と場合による。

そんな中でめずらしく『ミスター・ランズベルギス』では、民衆の頭にランズベルギスという主人公が設置されて彼個人の声にスポットライトが当たり、音楽学の専門家でおよそ政治家らしくない(?)穏やかな雰囲気を持つ彼のチャーミングな相貌がありありと映し出されていたので、若干の戸惑いを覚えつつもロズニツァ作品の中では一番楽しく見られて4時間案外退屈しなかったし、「政治家になんてなりなくなかったんだよ」と笑う彼の壮絶な人生に、これまでのロズニツァ作品からは受けなかった感動を受け取ったというのが正直なところだ。

だが先ほども述べた通り、私たちの感動のフィナーレはひとりの非力な男のノックによって破られたわけである。しかしここで敢えて彼に感謝をしてみないでもないのは、こうした一国の政変に対し、感動を覚えて涙を拭きながら劇場を後にするという振舞いがふさわしいのか?と考える契機になったからだ。

非常に下品かつマッチョな喩えで恐縮だが、かつてどこかの男性批評家が「革命」という出来事を論じるうえで、政治的な革命がもたらす高揚というものは、言ってみれば射精がもたらす一時の性的な快楽にすぎず、その行為をきっかけとして生まれる「家庭」の面倒を見続ける行程こそが本質なのに、重みづけが間違っているという話をしていた(正確な引用ではないと思うが、ニュアンスは合っているはず)。言いたいことはわかる。『ミスター・ランズベルギス』にしても『新生ロシア1991』にしても、我々は劇場である種の高揚感を追体験することができる。今まさに国が良い方向に変わろうとしているという確信、それを邪魔しようとする勢力に対する怒り、そこに民衆が一致団結して立ち向かっていくという大団円の予感……これは確かに歴史上の幸運な出来事である。しかし、王子様とお姫様がめでたく結ばれ「ふたりはいつまでも幸せに暮らしました」で幕引きとなるおとぎ話と違い、現実の世界では、その瞬間から新たに開始されその後果てしなく続く家政のけだるさを分厚い緞帳が遮断してくれる仕組みはない。

ロシアが1991年の「新生」を経て今どうなっているか、言わずもがなであるし、リトアニアにしたところでこの30余年、何の葛藤もなしに豊かな民主国家が運営されてきたわけではない(よその国に攻め込んだりはしていないが)。だから当然のことながら、大きな政変やそれに関わった政治家の評価というものは多面的に行われるべきものだ。たとえば、昨年10月にNHKで放映していたドキュメンタリー「ソ連崩壊 ゴルバチョフとロックシンガー」(ここに当時まだ日本では上映前だった『新生ロシア1991』の映像も引用されていた)では、ゴルバチョフがずいぶんと高く評価されているように感じた(日本だとまだ「ゴルビー」人気の残り香があるのだろう)が、翻って『ミスター・ランズベルギス』ではゴルバチョフの評価はひどいもので、ソ連の国体護持に拘泥する旧時代の遺物扱いだった。裏(かどうか知らないが)を返せば、ランズベルギスという政治家に対してだって当然リトアニアや周辺国では毀誉褒貶あるに違いないのであって、映画が切り取る政治家のイメージなどその程度のものと割り切ってかからねばならない*3

こういう属人的な評は価値が低そうだが、リトアニア独立運動に注がれるロズニツァの温かな目には、ウクライナという土地に生まれついた作者自身の出自が影響しているのだろうとは想像できる。ただやはり、人が集団として動くときに発生する制御不能なエネルギーの実相を描き続けてきた監督が、『ミスター・ランズベルギス』や『新生ロシア1991』になっていきなり抵抗と団結の美しさのみを描き出していると考えるのは素朴に過ぎるのであり、私の涙をすんでのところで振り払ってくれたノック男にはあらためて礼を伝えたい(ついでに『きみの鳥はうたえる』の柄本佑がトイレでこっそりぶちのめしてくれるらしい)。最近ロシア語圏の知識人として日本のマスメディアが参照するのが、アレクシエーヴィチとロズニツァという、どちらかというとジャーナリスト的気質を持つ芸術家ふたりであるというのは面白い傾向だなあとぼんやり考えていて、もちろん彼らの作品の質、また彼らがソ連やロシアという国と保っている距離が大事な点ではあるだろうが、「ファクト」に基づく主張の重要性が叫ばれる昨今、小説やドラマという作られた物語がそれでも真実の一端に触れ得る可能性が信じられなくなってきているのかもしれないという気はする*4。ただここで私は忘れないようにしたいのだが、アレクシエーヴィチにせよロズニツァにせよ、集めた「ファクト」を張り合わせていくときに巧みに素材を加工しているということだ。だからこそ彼らは芸術家なのだが、だからこそここで「小さき人々」に対するシンパシーとか、ランズベルギスの好々爺然とした声音の心地よさとか、ツォイの歌声に導かれるようにロックフェスよろしく広場に集まる人々の熱狂の渦、そういった諸々に100%心を持っていかれないよう注意深く接する必要も生まれるわけである。

最後に。『新生ロシア』で劇中に響く女性の声 "Спасибо за то, что вы есть, вы были и вы будете!" は、「あなたがたがいてくれること、いてくれたこと、そしてこれからもいてくれるであろうことに感謝します!」とでも訳せるだろうが、当時のレニングラード市長サプチャークの横にぴったりついて歩く若き日の"ワロージャ”ことウラジーミル・プーチンが映り込んでいることに象徴されるように、たしかにこの過去は未来としての現在にまで途切れることなく流れ込んでおり、ここに映りこんでいる人々の多くも確実に現在のロシアに生き続けている。しかし、リトアニア含むバルト三国モルドバジョージアなどの民主化運動に喝采を挙げ、「ファシズムにNO!」("Нет фашизму!")を叫んでいた人々が、2023年現在になにを「ファシズム」と名指すことになるのか、1991年の人々はまだ知らない。「ひざまずいて生きるくらいなら立って死ぬほうがましだ」("Лучше умереть стоя, чем жить на коленях")を掲げた人々やその子孫が30年後、無益な戦火のなかで膝を屈して死んでいくことになると彼らは予期していない。今目の前にいる素晴らしい仲間たちが「これからもいてくれるであろうこと」に対して感謝を叫びたくなるのが集団のもたらす高揚というものだろうが、そうした「文化祭」的高まりを抜けて、ではロズニツァが顔を見せてくれなかったあの女性は、いまどこで何をしているのか、何を食べどこで働き、日々何に感謝し、あるいは「こんなはずじゃなかった」と悔いているのか。映画を見終えたあともずっと気になっている。『ミスター・ランズベルギス』や『新生ロシア1991』が感動的な作品であったことは事実だが、そもそも政治や革命が与えてくれる「感動」にどれほどの価値があるのか、というちゃぶ台返しを繰り出す準備は、本作を見るにあたって怠ってはならない*5


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※もぅブログやめょ、みたいなメンヘラ的挙動を10月にかましておきながらしれっと復活して恥ずかしいが、映画の感想ぐらいならいいでしょと自分を慰めている。一時の快楽に流されている。

*1:こうして雪降る地方に暮らしてみると、映画・演劇の研究だ批評だなんてのはつくづく大都市圏でしか成り立たないものだよな、と思う。ネトフリとアマプラでは追いつかない。翻って文学は図書館にいけば大体読めるし、まだ民主的だ。

*2:今般の戦争勃発後、彼がウクライナの映画アカデミーの判断に与さなかったところにも、「集団」へ向かうときの彼の態度が透けて見える。

*3:以前『世界でいちばん貧しい大統領:愛と闘争の男、ホセ・ムヒカ』を見たあとに、それまでこの政治家の「闘争」の部分を削り取るようにかわいらしいおじいさんとして消費してきた日本のメディア(もちろんそれはムヒカ側の戦略でもあったのだろうが)に違和感を覚えたことも、この映画を見て思い出した。

*4:ウクライナの作家クルコフも何度か朝日新聞には登場していたが、あれも彼の創作物に基づいて事態を云々していたのではなかったはず。

*5:国葬』や『粛清裁判』は私にとって眠気を誘う退屈な作品だったが、葬儀や裁判を感動的に描く監督がいたとしたら、我々はむしろそちらこそを警戒すべきだろう。