読むな!読め!甦れ!

10年くらい昔の話、「世界文学」というタームが界隈で地味な流行の兆しを見せていた(?)とき、当時の私は「翻訳」とか「越境」とかそういった問題系にあまり興味がなかったので、「またなにかメリケンから思想の黒船が来とるワ、開国シテクダサイ」と斜に構えてスルーしていた。無知ゆえの頑迷は恥ずべきものと認めるが、そうした態度を決めるに至ったもうひとつの理由として、当時受けていた授業でアメリカ文学の先生が「アメリカは移民が多く、彼らが英語で自身の文化、ルーツを表現するようになっているので、今のアメリカ文学を読むことで世界を知ることができる」という趣旨の発言をしていて、なるほどここでいう「世界」とはそういうものか、とうっすら反感を覚えたということがあったのも、いまだに記憶している。

その先生の名誉のために言うと、授業自体は全体を通して大変刺激的だったし、そうした発言は、ふだん文学を読まない学生に向けた方便として発した面も大いにあったのだろうと、今にして思う*1。このたび、半ば必要に駆られて『「世界文学」はつくられる』を読んでみて、当然のことながら「世界」という言葉が歴史的に包摂してきたもの(こなかったもの)について批判的に考察するためにわざわざ「世界文学」という概念、システムがクローズアップされているのだから、偏見よくない、よく見るよろし、といった気分になっている。

ただもちろん、先の「アメリカ文学≒世界文学」的な見方は、アメリカの中にはある種のプライドとしてたしかに存在するもののようで、その点については本書にも言及があった。

アメリカ文学者のワイ・チー・ディモック(1953-)は、スピヴァクと同様、収奪的なグローバリズムと結びついた「世界」ではなく、文化多元主義やポストコロニアリズムの思想をくんだ「惑星」を想定し、既存のアメリカ文化のカノンに対して、人種的、階級的、性差的な制約や制限をもうけない広い範囲から作品を収集して「部分集合(サブセット)を作ることを提唱している(そしてディモックによれば移民国家アメリカの文学こそ、世界の多様性をもっとも反映したサブセットということになる)。*2

アメリカやロシア(ソ連)のように、民族的・文化的多様性を自国の特長としてアピールする国の文化に親しんでいると、そうした「多様性」の来歴を問わずにあっけらかんと称揚してしまうことがままあるので気をつけたいところだ、という考えは今も変わらない*3。ちなみに上の議論の流れで、最近ではアメリカのアンソロジストたちの間でも「世界」の捉え方が変わっているという事実の例証として、ドストエフスキー地下室の手記』と石川啄木の『ローマ字日記』が「共鳴(リゾナンス)」しあう作品として並録されているアンソロジーがあるという記述があって、笑ってしまった。啄木のダメ人間ぶりは国境を越える。

このところ、文学や哲学といった人文学分野の学問が、「古典/カノン」とみなされたものをひたすらに「再読/精読」し、そのときどきで流行りの思想をパッチのようにあてがって「アップデート」し、自分好みの結論を引き出したり、あるいは読みの見事さを競うものになっている点をどう考えたらいいのか、という悩み*4もあったので、その点において本書はひとつの指針を与えてくれるものになった。序文では「本書で私は小説(文学作品)をほとんど読んでいない*5」と述べられているのだが、大作家ひとり、作品ひとつに深入りするのでなしに、ひとつひとつは大きな価値がなさそうに見える情報を周到につなぎ合わせていくことで大きな絵図が出来上がっていくという手法には学ぶべきものがある*6。「精読」への無条件の信頼、読書好きが抱きがちな本へのフェティッシュな愛着を突き崩すという意味では、バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法』と似た問題意識がここには含まれているのかもしれない。

本には読むべきタイミングというものがあるので、10年前に『つくられる』が出ていたとしても、やはり私はこれを読まなかっただろう。アメリカの流行りなどなにするものぞ、Give me chocolate、という逆張り精神を燃やして食っちゃ寝してきたが、とか言いつつ『遠読』とかは買うだけ買って積んであるので、これを機に読んでみようかな。

*1:「名誉のために言うと…」という表現を使ってみたかっただけで、私が批判したくらいでその先生の名誉が傷つくとは、本当は思ってない。

*2:秋草俊一郎『「世界文学」はつくられる:1827-2020』東京大学出版会、2020年、341頁。

*3:以前読んだ『LAフード・ダイアリー』といった本などには、そういった無邪気さを感じないではなかった。

*4:本文中に書くと間延びしそうだったのでこちらに書くが、この「悩み」とは要するにこういうことだ。たとえば将棋のある難解な局面において、「52銀」とか「77飛成」のような誰もが驚く素晴らしい手を繰り出す(すなわち「読み」を披露する)ことは、将棋というゲームの価値を認めそれを疑わない人にとっては大きな価値を持つものだが、一方で将棋に興味のない人には端的に無価値である。「52銀」や「77飛成」は、こうして意味ありげに並べられた場合、誰がいつ指した手か、ある程度将棋に詳しい人であればすぐにピンとくるレベルで有名な符号なのだが、これを読むあなたがそうでないとすれば、単なる記号の羅列にすぎないはずだ。上記の符号の意味を知るためには、将棋をある程度楽しいと思えるまでに将棋の世界に入り込む以外の道筋はなく、「将棋に価値を認めていないが、知らず知らずのうちに『52銀』から大きな恩恵を受ける」という事態は起こりようがない。これは要するに将棋の指し手というものが、現実世界との間に何の摩擦も発生しない知的遊戯の構成要素でしかなく、将棋盤の上では絶大な威力を発揮した「52銀」も「77飛成」も、盤の外の塵ひとつ払うことすらできないというところに理由がある。将棋の指し手に価値を発見するためにはそもそも将棋というゲーム自体に価値を見出している必要があり、それ以外の場合には指し手に何の価値も発生しようがないわけだが、これに似て、作家や哲学者の提出するテクストをひたすら「再読」し、そこから取り出してきた優れた「読み」に価値を認めるには、前提としてそれらのテクストに「読む」価値があることを受け入れている必要がある。しかし、それでは論点の先取り(価値があるかないかを見定める前に価値を密輸入している)だ。

*5:秋草『「世界文学」はつくられる』、19頁。

*6:「ひとつひとつは大きな価値がなさそうに見える情報」のひとつとして、木村毅という大正期の編集者が出てくるのだが、彼の名前の読みが「き」だと知って驚いた。「き」て。