逃げろペプシマン!

その昔、ロシアには憂いを知らぬ若き世代が確かに暮らしていて、夏に、海に、太陽に笑みを送ると ―〈ペプシ〉 を選び取った。 *1

 

先ず一番に考えられる原因は、ソヴィエト連邦のイデオローグたちが真理は1つきりしかないと考えていたことにある。そのため〈P〉の 世代にはいかなる選択肢もなかったわけで、ソ連連の70年代の子供たちが〈ペプシ〉を選んだのはそっくりそのまま、その親たちがブレジネフを選んだのと同じであった。*2

 

ペレーヴィン『ジェネレーション〈P〉』より

 

ペプシ・コーラでおなじみペプシコが、ロシアにおける生産を停止したのだそうだ。

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ロシアの現代作家V・ペレーヴィンの『ジェネレーション〈P〉』という小説(1999)は、1970~80年代のソ連で青春時代を送った(1962年生まれの著者自身の似姿ともとれる)主人公が、ソ連崩壊後に資本主義のメカニズムに巻き込まれて破滅へと突き進んでいく物語だ(少なくとも私はそう読んだ)。そこで重要なモチーフとなっているのがペプシ・コーラである。題名の"P"が本当はなにを表しているのか、ということについては議論百出という感じではあるが、素直に考えればそれは Pepsi の P と読むしかない。

ソ連におけるコーラ流通の歴史は1972年、ソ連アメリカが食品流通に関する交渉で妥結し、アメリカのペプシコ社が「ストリチナヤ」ウォッカアメリカでの販売と引き換えにソ連でのコーラ製造を許可されたことに始まる(実際の製造開始は
1974年。ソ連におけるペプシ・コーラの歴史については、販売元であるペプシコ社のロシア語版公式ウェブサイトに詳しい、のだけど、今後いつまで稼働し続けるんだろうか*3)。

ただ実はペプシの販売開始から遡ること15年、1959年のモスクワ・ソコーリニキ公園で開催されたアメリカ産業・文化博でペプシ・コーラがロシアの人々に振舞われて好評を博していたらしい(これもペプシコのサイトに書いてある)。まあ味も知らない飲み物を製造させてくれとはならないわけだから、当たり前っちゃ当たり前なのかもしれないが、スタンフォード大のスラヴ文化研究者G・フライディンが『ジェネレーション〈P〉』の書評の中で書いている当時の思い出がおもしろい(このフライディン先生は、1946年生まれだから書いてある通り当時13歳だが、この後ロシアを離れてアメリカに移住したということなのだろう)。

 その[ソ連ペプシが流通開始する-訳者註]十数年前、共産主義の虜だったときにもペプシを味わったことがある身としては、この飲み物がイデオロギーを腐敗させる効果があることを証明できる。それは1959年、無垢なる年のこと、場所はモスクワのソコーリニキ公園、イベント名はアメリカ産業・文化博。13歳のモスクワっ子だった私にとって、そのフェアで提供された無料のペプシは、アメリ表現主義の苦痛にゆがんだような像が立ち並ぶ博覧会の彫刻庭園や、何百種類もの紳士靴のモデル(馬が蹄を扱うように靴を扱うことに慣れている人間には及びもつかないようなやつだ)を紹介する、よだれの出そうなディスプレイよりも衝撃的だった。異国情緒あふれる鮮やかな黄色の屋台の周りには長蛇の列ができていた。その奥では、白いユニフォームを着てまごついた様子のロシア人女性が6,7人くらい、泡の出るアメリカの飲み物を紙コップに注いでソ連市民に手渡していた。客たちは並んでいる間、互いの視線を避けながら、こそこそと様子をうかがっていた。彼らは、最初はためらいながらも、工業製品のウォッカのような風味のコーラをロシア流に一気に飲み干すと、ぶらぶらと歩き去った。これはくるっと振り向いてまた列に並び、スターリンが死んでからまだ6年だというのに、この裏切りの秘薬であるに違いない飲み物を一気飲みしたいがために、である。ご多分に漏れず私も何周かした。当時モスクワではペプシ・コーラのボトルと同じくらい珍しかった公衆トイレが戦略的に近くに設置してあったおかげで、この冒険は促進されたわけである。回を重ねるごとに、当時は当たり前だったソ連への忠誠心が薄れていくのを感じた。*4

1953年にスターリンが死去し、エレンブルグ 1954年の作品『雪どけ』の名を冠する開放的な時期が訪れるわけだが、そこに海を渡って颯爽と登場したペプシ・コーラは、それまでロシアや他のスラヴ圏で伝統的に飲まれていたクワスとは似て非なるものだった。ペレーヴィン的観点から言えば、クワスの良くも悪くも自然な甘みとは異なる強烈な味が、快楽をもたらすことに長けた資本主義という仕組み・世界への憧憬をソ連人の体内にひそかにインストールする役割を果たしたのである。アメリカ文化という「未知」との遭遇をソ連人が果たした契機といえば、1990年にモスクワ中心部のトヴェルスカヤ通りの十字路のところにマクドナルドが誕生し、とんでもない行列を作っていた様子が有名だけれども、それはもうソ連も終わりの終わり頃だし、ペレーヴィンはそっちにはあんまり関心がないみたいで、ペプシこそを西側の価値観の流入のシンボルと位置付けていた。

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この写真は、1980年代のモスクワのようだ。楽しそう。

フライディン少年を魅了したペプシの屋台から60余年の歳月が過ぎ、時計の針が巻き戻ったかのようにペプシはロシアから出ていくことになった。時代に線を引く作業というのはときにとても安易なものだけど、ロシアにおける「開放」のシンボルがまたひとつ彼の地から姿を消していく様子を目の当たりにしたことで、時代の趨勢というものをなにか妙な手ごたえとともに感じてしまった。

とはいえ、一度おぼえてしまった味というのは忘れがたいものだし、ペプシ・コーラの不在はさながらペプシマンを追いかける巨大コーラのごとく強迫的にロシア人の舌を苛むことになるだろう。ペプシコ社にしたって商売のことだから、そこに需要がある限り、事態が鎮静化したのちにしれっとロシア市場に戻ってくるという可能性を考えるほうが普通かもしれない。*5