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『現代ロシア文学入門』が今日出るので、ひとり勝手にオーディオコメンタリーを書こうと思う。「オーディオコメンタリーを書く」とは?

私は批評家レフ・ダニールキン(1974~)の「クラッジ」という論文(原文に註や参考文献はないので、日本では「批評」にカテゴライズすべきだろう)の翻訳と、巻末の関連年表の作成を担当した。

「クラッジ」は、日本語にして4万字程度の文章で、主に1991年のソ連崩壊後四半世紀の間に登場した作家・文学作品を見渡してその見取り図を描こうという意欲的な論考だ。したがって情報がかなりみっちりと詰まっている印象を受ける。ロシア人(ロシア語使用者)の中でも文芸誌を日頃から手に取るようなタイプの読者に向けて書かれたものなので、当たり前といえば当たり前だが、ある程度の前提知識が読者の側に想定されている節はある。

また著者本人が言うことには、そもそもソ連崩壊から現在(論文の初出は2011年。訳したのは2016年ver.)までのロシア文学は「ジャングル」のようにわさわさとわけの分からない生態系を生み出していて、すっきりした分類や整理を拒むようなところがあるそうなので(まあこれに関しては、どこの国の文学でも同じようなことは言えてしまうのでは、という気もするが)、一読して明快な図式が頭にインストールされるような論考では、ひょっとしたらないかもしれない。

だから日本の一般の読者が現代ロシア文学に「入門」しようとしてこの本を手に取り、この論考を読んで果たしてどう感じるのか、というところはすこし心配だ*1。ほかに日本の著者たちが書いた論文やエッセイも多く収録されているので、そちらから入ったほうがスムーズな可能性はある。とはいえ相当広範囲に目を配っている著者の書くものなので、腰を据えて読めば得るものは大きいはずで、実際私も訳しながらいろいろと調べたことで大変勉強になった。頑張って註はいっぱいつけたので、それは読者の助けになればいいなと思う。

論旨を非常に大雑把にまとめれば、ソ連崩壊直後の1990年代には、市場の需要や国外の潮流などに適応してロシアの文学が「外」に開かれていくと多くの人が予測していたものが、どんどんとまた「ロシアとはなにか」的な大仰な(とはいえ我々にとっては「ロシア文学といえばこうだよね」といった趣きもある)リアリズムや、プーチンという一政治家をモチーフにする「内」向きな作風に絡めとられていく傾向を、著者がこの25年くらいのロシア文学に読み取っている、という具合になろうか。ダニールキンの見立てが正しいのだとすると、それはなんだかソ連崩壊から今回のウクライナ侵攻に至るまでのロシアという国の歩みとダブって見えてしまい、一抹のもの悲しさを覚えなくもない。

題名になっている「クラッジ(клудж,kludge )」という単語は、著者の説明にあるようにプログラミング業界で使われているジャーゴンらしく、本来は相互に関係性のないプログラム同士を現場で適当に組み合わせて使って、なんとなく動いちゃってるプログラムのことを指すのだそうだ。題名として1度出てくるきりで本文中にはこの単語は出てこないので、読んでる側とすると逆に混乱しそうだが、要するに、それぞれの作家が好きなように好きなことを書いて、それらが寄せ集められたものが「ロシア文学」という大きな塊となって駆動しているようには見えるものの、なぜそれがひとつのまとまったプログラムと見なされるのかはよくよく考えるとわからない(というか、動いていていいものなのか?)、という著者の問題意識を表しているのだと理解した。

さて先日出版元が公開していたまえがきにもあるように、この企画自体は2020年には動き出しており、「クラッジ」の訳稿も2022年2月24日以前にほぼ出来上がっていたのだが、あれからなにもかも変わってしまった。

まあ、ほんとはあの日以前からいろいろなことが進んでいて、それに気づかなかった(ふりをしていた)だけではあるのだろう。ロシア文学おもしろいよ!と胸を張って紹介できない世界情勢であることがどこまでもつきまとって、これは冗談抜きで胸が苦しいが、私が苦しんでてもしょうがないのでまあしょうがない。『現代ロシア文学入門』のなかでおそらく一番読みづらい部類に入るのが私の訳した論考で、巻頭の作家インタビューや本邦初訳の作家たちの短編、現代の映画や美術に関する日本の専門家のエッセイなどはふつうに読みやすいものが多い。もちろん「クラッジ」だって、先に言ったように著者の知識はすごくて、知らない作家の名前がわんさか登場するので、本当にロシアの現代文学を今から掘っていくぞという気概のある人の目には宝の山とも映るだろう。あと「現代ロシア文学翻訳リスト」なんてものもついているので、便利。純粋に文学的な興味からでも、今般の社会情勢を理解する手がかりを探すためであっても、手に取っていただく価値はあると信じている。*2toyoshoten.com

ところで、訳者解題を書いているときに調べて知ったのだが、著者のダニールキンという人はウクライナヴィーンヌィツャ(Вінниця)の出身らしい。日本人にはなかなか発音の難しいこの町は、残念ながら今回のロシアによるウクライナ侵攻の標的のひとつとして名前が知られることになってしまった。ダニールキンは今回訳出した文芸批評的な仕事のほかに、レーニンガガーリンの評伝を書いたりもしている人だが、現代ロシアの右派的傾向を持つ、たとえばプリレーピン*3やプロハーノフ*4の作品も評価してきたようで、今どのような気持ちで活動をされているのか、想像するこちらの心も複雑に乱れる。ドゥーギンみたいにわかりやすい図式化*5を貴ぶ思想家は、ウクライナを東と西でスパッと割ってこっちはロシア寄り、あっちは米国寄りみたいなことを言いたがるのだが、本来ここからは敵、ここからは味方と切り分けられないがゆえに複雑化してきたのが両国の歴史であり、混迷を極める現在のロシア‐ウクライナ情勢の一側面である事実は否めない。今回の戦争を経て(といっても、まったく終わる気配を見せないが)ロシア語圏の実作者や批評家たちから今後どのような言葉が発せられていくことになるのか、注視していきたい。

ダニールキン。なかなかいい男だ

ここからは余談だが、今回『現代ロシア文学入門』の表紙になっているのは、ソッツ・アートで有名なエリク・ブラートフの絵のようだ。2014年にモスクワで展覧会をやっていた時に見に行った記憶がある。

今回の表紙、デザインとしてはとてもかっこいいと思うのだが、「XX」、つまり20世紀がテーマの作品なので、本のテーマに沿っているのか?という懸念がふと頭をよぎった。もちろん意思決定は出版社の方々と責任者の先生方が相談しておこなったはずで、そこの円卓会議でOKが出たのなら文句はない(本当にない)。ブラートフいいですよね。Tシャツ持ってます。

それではみなさま、なにとぞよろしくお願いいたします(雲南風角煮カレーともども)。

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*1:まあ哲学なんかだと、これ絶対「入門」じゃないだろという難易度の本まで入門書をうたっていることはしょっちゅうなので、文学だけがそこまで親切設計である必要もないのかな、とはちらっと思った。開き直りとも言う。

*2:理想だけを言えば、「クラッジ」を読んだ学生さんとかロシア語学習者が自分で未邦訳の作家をネットで調べて本を買って通読する、みたいなことが起これば嬉しい。ただ現状「クラッジ」で扱われている作家の未邦訳の本を入手することには障壁があるのが残念なところだ。ひとつはもちろん、今回の戦争に連動する対露制裁で日本のクレジットカードによる決済がロシアではできなくなったため、個人輸入(ネットショッピング)は壊滅的であるという理由。もうひとつは、これは今の状況とは関係ないが、単純にロシアでは5~10年ほど前の小説でもあっけなく品切れになり、ネットでも実店舗でも手に入らなくなりがちという出版事情の問題だ。現地に行って古本サイトのAlib.ruとか使えば入手はできるだろうが、今は現地にはなかなか赴きづらいのでどっちにしろ、である。どうしたらいいんだ!!!

*3:ダリヤ・ドゥーギナが殺害されたのは、プリレーピン主催の「伝統」というイベントにドゥーギン親子が参加した帰り道だったそうだ。

*4:プロハーノフについてダニールキンは、「ボリシャヤ・クニーガ」賞や「ナショナル・ベストセラー」賞の候補にも挙がった評伝も書いているようだ。直訳すると『卵を持つ人:アレクサンドル・プロハーノフの生活と意見』なのだが、実はロシア語で「卵」という単語には「睾丸」という意味もあって、なんとなくだがこの本に関してはそちらの意味に訳したほうがいい気がしている。いずれにせよ読んでみたいなあ。最近ロシア語の本手に入れづらいんですけど……。

*5:良し悪しはともかく、物事をきれいな図式に落とし込む批評家的技術については、ドゥーギンはダニールキンよりは巧みそうだ。