哀れな土地、波打つ人びと

たまに行く小さな映画館がかつてないほどの人で賑わっていて、みな列をなしてパンフレットを買い求めている。館内に入れない。何事かと思ったら、俳優の井浦新が舞台あいさつに来ていたらしい。私にとって井浦新と言えば、昔モスクワで見た三島由紀夫の伝記映画での「ちょっと走ってきます」である。

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パンフレットが売れていたのは、井浦新がサインをしてくれるからのようだ。私はその次の回の映画を見るために急いでいたので、井浦新本人を目にすることはかなわなかった。しかし、井浦新を求める列が伸びれば伸びるほど、井浦新に群がる人びとの稠密さが増せば増すほど、その人間の塊は井浦新の輪郭を忠実になぞる。井浦新の姿かたちがそこに精確に浮かび上がる。となれば私は本日、井浦新〈本人〉を目にしたと言っても過言ではない、そうではなかったか?

今日見たのは『ゴッドランド』。傑出していた。「外国に赴く際は、その国の言葉を多少なりとも学ぶ姿勢を見せなければ死」という事実をこれ以上ない形で提示してくれている。


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アイスランドの風景は、それを切り抜くだけで絵になる。「ショットが決まる」という感覚を味わわせてくれる(もちろん技術的には「切り抜くだけ」なんて処理がなされているはずはないのだが、それでも)。似たような風景をロバート・エガース『ノースマン』で見た気がしていたが、あっちは舞台設定がアイスランドなだけで、撮影場所はアイルランドらしい。なんにせよ『ゴッドランド』のほうが自然との対し方が上等だと思った。滝は落ちるだけ、溶岩は流れるだけ、雪は積もるだけ、風景はそこにあるだけですでに均整が取れている。

それに比して、『ゴッドランド』で映し出される人びとの振舞いは、いついかなる時もバランスが悪く、タイミングが悪く、おさまりが悪い。通じない言葉で会話にならない会話をし、写真を撮ろうとすれば人はじっとしていられず、それを屋外で現像しようとすれば器具は倒れ、テントで祈ればろうそくは消え、女性が部屋に入ってくるときに男は裸であり、会食の席でワインは倒れ、作法を知らない人間が取る相撲の決着はつかず、やっと建てた教会でお祈りをすれば子供と犬に邪魔をされ、正装に身を包んだ牧師はころんで泥にまみれる*1

エガースであればむしろ『ウィッチ』(こちらも布教のために未開の異郷に居を移す家族の話だ)を思わせる、悪意や超常現象によってではなくただただ人間の不完全さによってすべての歯車が狂っていくような、そんな2時間30分。現地民の姉妹、妹のイーダの演技に心を洗われる。半分だけデンマーク人だと笑うときの手の動き。馬上でのポーズの豊かさ。これだけが救いだ。


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目指した2軒が満席で入れず、やっとたどり着いたビール。とにかくおさまりの悪い日

*1:『ゴッドランド』のパンフレットに収録されているエッセイのひとつでは、アイスランドの自然が「複雑な曲線と曲面、パターンに収まらないカオス」であり、主人公の辿り着いた村が「パターンと直線ばかりの人工物」にまみれている(つまり、自然の中に不自然な秩序を持ち込んでいる)としている。だがここで述べたように、本作ではどう見ても人間の営みのほうが、いつもどこでも破綻の傷口をさらけ出す「カオス」のように私には見える。