体には蜂蜜、飲酒運転には厳罰

「今やキルギス人が旦那ってわけだ。連中はごろごろして、クムス[馬乳酒]を飲んでるだけ。連中の畑仕事はロシア人が半分肩代わりさ」*1

(T・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』より)

前作の『馬を放つ』より好きだったかもしれない。主人公が水色の戸の前に座って、ラジオ放送が流れているシーンとか。

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出稼ぎに行った先のロシアでなんらかの「事故」に遭い、記憶も言葉も失ってしまった主人公は、息子に連れられてキルギスの家族のもとに帰ってくるが、帰ってきた先では息子に止められるのも聞かずひたすら村中のゴミを集め続ける。「まだロシアにいるつもりなのか!」と息子に怒鳴られるのは、彼がロシアでゴミ収集の仕事をしていたからなのか?

以前住んでいたモスクワのアパートでは(捨てる側にとっては楽なことだが)燃えるものも燃えないものも、とにかくダストシュートに放り込んでしまえばそれで終いだった。こちらが気に病んだところで仕方がない、分別など端から求められていないのだ。

ある時ふと窓の外を見下ろすと、おそらくは中央アジア等から来たのであろう(スラヴ系ではなさそうな)人々が、ありとあらゆる種類のゴミの混合物を収集していた。そうかあ、とだけ思って部屋に引っ込んだ。

のちに中央アジアの人と個人的に知り合ったとき、モスクワは〈嫌なところ〉なのだ、とはっきり伝えられたことがある。ゴミ収集員やレジ打ちの人たち、国はどこ?と声をかけてきたシャウルマ(ケバブ)屋の店員のことが思い起こされた。客としてロシアに滞在していた私の経験は、そういう話を聞きでもしない限り根っこのところから相対化はされなかっただろうと思う。

ロシアからの、とは限らないが、本作の主題が「キルギス的なるもの」への帰還だというのは当たっているだろう。『馬を放つ』が言葉にした強烈なナショナリズムは今作では抑えられている(なにせ主人公は一言も発さない)し、映画としての良さは、かならずしもそうした思想が前面に押し出されていないシーンにより現れ出ているとも思うが。主人公の旧友のじいさんたちが集まって酒を飲んだり、主人公を元妻に引き合わせようとしたりするシーンは、なんかよかった。彼らが開始5分で飲酒運転を始めたのには笑った。

前作でもそうだったが、本作にも教条主義的なイスラム教徒への懐疑が織り込まれている*2。主人公が死んだと思い、村の粗暴な金持ち(レクサスに乗ってる)と再婚してしまった元妻が、義母と揃いの厳格なイスラム教徒の着衣に身を包んでいるのが(その元妻の服装の変化も含めて)象徴的だ。無知ゆえに私などもつい「イスラム系」とひとくくりにしてしまうが、キルギスにとってみればイスラームもまた外来の宗教なのであって、自然と言えば自然な流れには見える。もっとも「体には蜂蜜、魂にはコーラン」と語るおだやかな導師は肯定的な人物として描かれているので、あくまでも監督が考える限りでの、本来の遊牧民的自由を束縛する融通の利かなさが批判されているのだろうとは思う。

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ちなみに最近は、『ハズビン・ホテル』の第1シリーズ(計8話)も見た。なんとなく『純潔のマリア』を思い出していた。チャーリーの「てきゅてきゅてきゅてきゅ!」がかわいかった。

*1:テリー・マーチン『アファーマティヴ・アクションの帝国』半谷史郎監修、荒井幸康・渋谷謙二郎・地田徹朗・吉村貴之訳、明石書店、2011年、96頁。

*2:このあたりは、以前目に入った専門家の方の発言を参考にさせていただいた。https://x.com/noppo6/status/1686641498744672256?s=20