王国(あるいは鮮魚の天ぷらについて)

昼時を逃して、中途半端な時間でも開いている飲食店を検索していたら、「金沢には天ぷら屋がない」という、天ぷらの智恵子抄みたいな書き込みをGoogle Mapに見つけた。ほんとのところはどうなのか、数を数えたわけではないから分からないが、実感としてはたしかにそうかもしれないと思う。すぐそこの海で獲れたばかりの魚介類に厚く衣をまとわせ、香りの強い油でカリカリに揚げる必要などないということだろうか。それならば道理だ。「天ぷらにすれば大抵の葉っぱは食える」という父の言葉が谺する。

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しかし天ぷらを食べたい午後3時もある。デパートのレストラン街に見つけた、30年前の量産型温泉宿の食堂をそっくりそのまま解凍してきたような殺風景なレストランで、河豚とノドグロの天丼を食べた。30年前ですら平成なのが本当に怖い。

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そんな魚介王国・石川で何をしていたかと言うと、『王国(あるいはその家について)』を見ていた。


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全体として、映画を発声へ、台本へ、稽古へ、撮影へと分解し還元し切り縮めていこうとするような「アンチ映画」感が面白かった。脚本の高橋知由氏は、濱口竜介『不気味なものの肌に触れる』の脚本も担当していたけど、2作品は「濁流」というモチーフを挟んで世界を反転させたような格好になっている。『不気味な―』のほうは、千尋染谷将太)と直也(石田法嗣)がダンスを通じて無言の・身体的つながりを構築しており、その間に現れた異物である直也の彼女が排除される(続編の『FLOODS』は本当に作られるのでしょうか)。「王国」の建国を通じて通じ合っていた亜希と野土香の間に野土香の家族が現れ、それが排除されるのが『王国』。

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見たことのない演出の作品だし、反復に次ぐ反復を見せられても2時間半を長いとは感じなかったが、題名のつけ方とか、「決定的に損なわれている」みたいな言葉選びとか、人間の情念を暗い水の流れ(暗渠、下水道、濁った河川)に象徴させる安易な比喩とか、あるいは(!)清潔な日常に忍び寄る「ワタナベノボル」的不安とか、そこかしこに感じられる村上春樹っぽさはなんだったのだろう。実際に村上春樹から影響を受けているかどうかより、この世代の書き手が少し文学的なアクセルを踏み込むと、こちら側で「っぽさ」に回収してしまうことのほうが重要な論点なのかもしれないが。

金沢は、21世紀美術館が展示を停止しているくらいで、表向き観光地としての賑わいを取り戻していて、曰く言い難い思いに駆られた。これは2011年3月に盛岡で感じた感覚に似る。