秋風や水に落ちたる空のいろ――「十月の草稿は忘却の彼方に」篇

昨年10月、東京国際映画祭に行った。その後、そのとき見た『Air』という作品の評を書こうとしたのだが、ほかの戦争映画との比較とかしないとダメかなあ……と身構えすぎたため身動きが取れず、結果つまらない感想文が出力され、放置されていた。

「明日やろうはバカ野郎、トラック野郎の子守唄」という警句にもあるように、やると決めたことはすぐやるべきだったし、高い完成度を目指してなんの成果にも至らないくらいなら、とにかくなんらかの形で人前に出すべきだった。それがたとえ生煮えで客の腹を壊すことになっても。もういい。


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※※※ 以下、10月の書きかけを体裁だけ整えたもの ※※※

戦争映画の唯一の美点、それは、色調が落ち着いているということである。白、黒、灰、茶……などと言っていれば、「いや、炎と血は赤いではないか」と反論を呼び込みそうだが、君は知っているか、戦場では唇すら土気色なのを。

A・ゲルマン Jr.『Air』は、戦争映画にしては珍しくもうひとつ美点を持っていて、それは「うるさくない」ことである(YouTubeの予告編は勇ましすぎる)。オープニングの空の映像から「Воздух」というロシア語の題字が出てくるまでの静けさは、本作全体への期待を高めるに十分だったし、そこを思い出せさえするなら、この映画を見てよかったのだ。

色が暗く音が静かであるということ、それはすなわち(?)退屈だということである。案の定、隣に座っていた外国人カップルは途中でスマホを見たりこそこそ話したりと、あきらかに2時間以上の集中力をスクリーンに注げてはいなかった。かくいう私も、途中でどうしても眠気を抑えきれずウトウトしてしまった5分間があったので、あまり人のことは言えない。実はこの映画、プロットもかなり単調で、話す→飛ぶ→死ぬ→話す→飛ぶ→死ぬのサイクルが、女性飛行士が最後のひとりになるまで続くだけだ。しかしこの〈盛り上がらない死〉については、監督が現状のロシアにおける独ソ戦の扱いについて、せめて一片もの批判を加えようとしたのだろうと、私は好意的に読み取っている。戦争はエンタメでなく、兵士は主人公でなく、戦死者数は得点でなく、死はクライマックスではない。

「これまで描かれることの少なかったソ連の女性兵士」という映画祭側の売り文句については、ロシア映画に詳しくない私でもすぐ『ここでは朝焼けは静かだ(А зори здесь тихие)』とか『ロシアン・スナイパー』とか『戦争と女の顔』とか思い浮かぶし、若干引っかかるものはある(「少なかった」だからいいのか)。ただ、独ソ戦ものの「男が守り(殺し)女が生きる(生かす)」紋切り型大量生産ラインのうえにあっては、本作はひとつ目立った意味を持つ、のかもしれない。

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余談になるが、見終えて帰ろうとしたら、なんとこれは東京国際映画祭なので監督ご一行が会場に来ていて、質問タイムが始まった。最初は他人の質問に対する回答をはあはあと聞いていたのだが、最後になって、どうせここで恥をかいたとてこの会場の誰が私を認識しているでもなし、と意を決し、自分も質問をしてみた。内容は上に書いた「うるさくなさ」についてだったのだが、監督からは微妙な反応が返ってきた。たしかに戦争映画だから爆音や叫び声などはあるし、そのあたり私の言葉が不十分だったのだろう(私が言いたかったのは音楽の用い方や役者の声色・声量、映画全体の色彩・トーン、そういった諸々についてだった)。ところが、当日監督の隣に座っていた衣装担当にしてゲルマン Jr. の配偶者のE・オコプナヤ氏が、わざわざマイクを求めて「あなたの指摘は注目に値すると思う」とフォローを入れつつ、近年の戦争映画の大げさな演出への批判、自身の思う『Air』の美点などを語ってくれた。それまでほとんど監督ひとりがしゃべっていたので、自分もなにかしゃべりたかっただけなのかもしれないが、ともかくなんだか報われた気分になった。あとなぜか、質疑応答タイムが終わって劇場を出る際に知らないおばちゃんに後ろから肩をたたかれ「質問良かったですよ!」と言われた。知らんおっさんを安心させてくれてありがとう、オコプナヤ&知らんおばちゃん。

※※※以上※※※

 

ゲルマン Jr. だが、昨年11月、父アレクセイ・ゲルマンについての伝記映画の件で批判を受けたというニュースがあった。要は、この映画の制作にほぼすべて責任を持っていた映画批評家のA・ドーリンの名前が不当に映画のクレジットから排除されている、ということが問題となったようだ。ドーリン曰く、本作は戦争が始まるのとほぼ同時期にインデペンデントで作り終えていたらしいが、最後の最後で予算が足りなくなり、国の財政的支援を受けた。そうなると「文化省」マークをクレジットしなくてはならないが、彼はそれに難色を示した(まあ、クレジット自体はルール上仕方ないのかなとも思うが。下の予告編をちょこっと再生すると分かるが、現在は映画の冒頭に「ロシア連邦文化省」の文字と双頭の鷲の紋章が出てくる)。その後2022年10月にドーリンは「イノアゲント(外国の代理人)」に指定されている。そういった人物への支援に対しては、文化省側も快く思っていなかったらしい。そして公開にあたって、ゲルマンJr. とオコプナヤが名ばかりの監督として登場したことが、ネット上で紛糾したということのようだ。

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現代のロシアにおいて戦争映画を撮ること、伝説的な映画監督の息子として映画を撮ること、その重みは当然のことながら私には分からない。生まれる場所も親も、人は選べない。もちろん、その生まれによって得をしている部分もずいぶんあるだろうし、その映画自体の良しあしについて、軽い調子でも品評を控えるつもりもない。だが、自身の生まれに直面してそれを引き受けざるを得ない人間に対しては、どうにも割り切れない思いを持っている。それは当人に対する好き嫌いとは別の、そういってよければ、私個人の文学的課題に紐づく感情だ。