嵐を呼ぶアファーマティヴ・アクション帝国の逆襲

クリストファー・ノーラン監督『オッペンハイマー』では、登場人物が"Russian"と発声している箇所が、字幕ではことごとく「ソ連の」と訳されており、気になった。嫌だった、と遠回しに主張しているのではなく、単純に気になったのである。それを見るちょうど前の日に『アファーマティヴ・アクションの帝国』という本を読み終えたからだ。

700ページもある本(もっとも、あとがきや註、索引が100ページ以上を占めるので、本文は555ページだが、とは言え)の詳細にわたる書評を書ける気はしないのだが、簡単にでも読書メモをつけておくと、あとあと自分が助けられるということがままある。

ソ連全土、それまでそもそも一個の民族と見なされていなかったもの含む多数の民族にまたがり、紆余曲折を経ながら繰り広げられる優遇政策の内実と、その興亡を実証するための膨大なデータが詰め込まれた本書を読み通すのには難儀したが、しかしながら、ひとつ議論の中心となる問いを絶えず想起し続けることによって振り落とされずに読み進めることができる。私なりの噛み砕いた言い回しを許してもらえるなら、それは「労働者の国であるソ連にとって『民族』とは、憎たらしい、いなくてもいい、できればそこにいて欲しくない〈要らない子〉であったはずなのに、どうしてこんなにもかわいがって育て上げる必要があったのか」というものである。

『アファ帝』が用意する答えは明快だ。共産主義の理念が、「階級」以外に人間を分ける指標はないといくら強弁したところで、人種・宗教・ジェンダー等々の区分を人は無視できず、むしろそこに強くアイデンティティを係留している場合がほとんどである。そうなると、現実的には経済・行政・教育・文化等の各方面でロシアを軸に回さざるを得ないソ連の国策(たとえば農業集団化など)が、経済政策としてではなくロシア帝国時代から続く非ロシア人に対する人種的な抑圧と捉えられ、反ソ的な民族運動が巻き起こる危険が常にあった。そこでいわばガス抜きのために、非ロシア人の優遇政策を取らざるを得なかった。

プロレタリアートである限り人は人種も性別も宗教も国境も超えて手を取り合える、理論的にはそうなっている。しかし広大な領土を誇るソ連の内部では、いつもその絆に「民族」が割って入る。ならばと導入される、「民族」という概念を最終的に廃棄するための弥縫策としての非ロシア人優遇。アクセルとブレーキを同時に踏み込むかのようなそうした大いなる政策上の矛盾が、1920-30年代のソ連の国家運営に抜きがたく存在していた。その前提を捕まえてさえいれば、読み進めるのに困ることはなくなるはずだ(なんなら初読時は、細かいデータの隅々まで見る必要もないだろう)。

ソ連構成国15か国(もっともバルト三国は年代的に議論に入ってこない)のうち、本書はウクライナ中央アジアの問題に大きな紙幅を割いているが、なぜロシアという国が今になってもウクライナにこんなにもこだわるのか(理由があるから侵攻してよいという話にはまったくならないが)*1という問題の根っこや、ソ連崩壊時に旧ソ連の国々で独立運動が民族運動として巻き起こった機序などが、これを読むことでかなり明晰になってくると思う。『ミスター・ランズベルギス』『唯一、ゲオルギア』などの副読本にも最適である。

話は変わるが、ソ連とかロシアとかウクライナとかに興味がなくても、本書はアファーマティヴ・アクションというものが社会にもたらす影響を論じるうえで現代的な意義があるように感じた。塩川伸明による「あとがき」にもあるように、著者マーチンがアメリカにおけるアファーマティヴ・アクションの興隆とそこから生じるバックラッシュを目の当たりにしたことが本書の元となる論文の執筆動機のひとつ*2になったようだが、現代日本において左派・リベラル(もはやこの二語はごっちゃに使用されている感が否めないが)が取り組む社会運動にも無関係ではない。そうした場でよく用いられる戦法は、左翼の帝国であったソ連において20世紀前半に出そろっていたのだ。

たとえば、本書でよく言及される理論に「最大の脅威」論というものがある。プロレタリアートが統べる国に民族主義は不要とは言え、歴史上虐げられ発展を阻害されてきた民族の間にナショナリズムが芽生えることにはまだ汲むべき事由があるが、ロシアにはそれはない。ロシアにおけるナショナリズムの強まりは他の民族の正常な発展を脅かす「脅威」でしかない、こういう論法である。この理屈に基づいて当初ソ連ではロシア人(語、文化…)の権利は実質的に制限されていた(≒他の民族が受けられる優遇をロシア人のみ受けられなかった)。そうした事態にロシア人は不満を持ち、その後の反動的なロシア・ナショナリズム形成につながっていく(第10章、11章)。

これは最近よくネットで目にする「権力(権威)勾配」の議論と言っていることがまったく同じだ。これの出どころを探ろうとする人もたまに見かけるが、当然のことのように左派の牙城(牙城ってカッコ良すぎる、住みたい)ではそうした議論が行われていたのである。本書には(原語までは未確認だが)「戦闘用語」という言葉も出てくる。イデオロギー闘争に勝利するために、いわば喧嘩殺法の道具として様々な用語を編み出していくというのも、当然のことながら行われていた。

ところで『アファ帝』を読んでいる最中、ひょっとしてこれは「ソ連は『良いこと』をしたのか?」的な問題設定と捉えられなくもないのでは?という考えが頭の片隅に浮かんだ。しかし実は元ネタのほうは読んでいなかったので、慌てて買ってきた。すると以下のような記述にぶつかる。

そうした(社会的平等をめざすという意味で)「社会主義的」な政策が導入された背景には、労働者を懐柔して階級闘争から引き離し、格差のない「民族共同体」に統合しようとするねらいがあった。社会・経済的に恵まれない労働者層に手を差し伸べ、彼らを称揚して誇りや自尊心に訴えるとともに、ある程度の実質的な利益を提供し、将来の豊かな生活を期待させることで、体制への順応を促進しようとしたのである。*3

ソ連にとって「民族」概念が〈要らない子〉であったことの裏返しとも言えるが、「人種」「民族」を社会運営の基盤とみなすナチスドイツにとって、「アーリア人」同士の絆に亀裂を生ぜしめかねない「階級」の概念は、できれば家においておきたくない厄介者であった。しかし、格差にあえぐ労働者の機嫌を損ねればアウトバーンの建設どころではなくなる。だからこそ、共産党員や労働組合への弾圧を強める一方で、労働運動・福利厚生の充実などにある程度の配慮をした、というのが『ナチスは「良いこと」もしたのか?』の議論である。イデオロギー的には両極にあると言ってもよい両国だが、いずれにしたところで人は理念だけでは動かない。国家を運営するには避けられないある種の余白、グダグダを見せつけられるようでもある*4

巷では「現金に体を張れ」とか「往生際の意味を知れ」とかいろいろ言われているようだが、私が言いたいのは「1万円の本を読め」である。200頁の新書を3~4冊読むのと『アファ帝』を読むのでは、読む文字数自体はさほど変わらないだろうが、得られる知識の体系性と厚みが段違い、だと、思う、たぶん。ほんとうに面白かった。

*1:この点について、ロシアのやっていることは悪いことなのだから理解してやる必要などないという意見はあり得る。一理あるが、それは「理解」という言葉をお役所言葉的な意味で取ってしまっているのだとも言える。「ベンチの形状はこれです。ここに道路を引きます。公園の遊具を撤去します。ご理解のほどよろしくお願いいたします」という口吻が、「いろいろ言い分はあるだろうが、こちらの事情を汲んで、文句を言わないで従ってほしい」という本音を包むオブラートでしかない場合の「理解」である。『アファ帝』が求める「理解」とは当然そういった類のものではない。ここでは、ソ連の中心として大きな力を持ってきたロシアと、ある種二番手的な立場から、ソ連の中で自分たちの利益を獲得するためにしたたかに動き続けてきたウクライナが繰り広げてきた綱引きの様子が克明に描かれている。歴史書を一冊読み通した程度で現行の悲劇に対し即効性のある解決策を提示できるわけもないが、宇露の複雑な歴史について誤ったことを述べている人の言うことを誤っていると判断できるようになり、聞く価値のある意見を見分けやすくなるならば、それには大きな価値がある。いわゆる「ホロドモール」についても詳細に論じられているので、『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』などを見つつ本書を繙いてみるのもいいだろう。ソ連におけるウクライナ優遇政策は、ウクライナ語がたどってきた歴史のほんの一端でしかないので、「キーウ」という呼び名の提唱者である中澤英彦「私が『キエフはキーウに』と提唱した理由」なども合わせて読んでおくことが望ましい。

*2:監訳の半谷史郎によると、著者の祖母がダゲスタン出身のカナダ移民であったというのも、本書が生まれたきっかけのひとつだそうだ。

*3:小野寺拓也・田野大輔『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』岩波書店、2023年、18頁。

*4:『ナチ良い』の著者らは、ナチスドイツとソ連を「全体主義」と大括りにしてまとめて批判する論法を批判し、「より複雑な支配の実態」(同上、19頁)に注目するよう注意を促しているので、そこには気をつけたい。