2016年のかぼちゃビール

コンビニで「芋」ビールを見つけた。最初は芋焼酎ソーダ割りかなにかかと思ったが、パッケージに「ホップ」とあったので、ビールと分かった。

これを飲んで思い出したことがある。7年ほど前、金はなく、それでもなんとかして日々の生活にアルコールの彩り(=無色)を加えようとしていた頃の話。近所のスーパーに足を運ぶと、見慣れないビールが130~40円くらいの捨て値で売られていた。

「ザ・パンプキン」を謳うパッケージが怪しく光るこの飲み物は、種別としては発泡酒だが、麦芽の割合は通常のビールを名乗れる程度使用されていたようで、ただ一点、かぼちゃの混ぜ物のせいで発泡酒を名乗らざるを得なくなっているようだった。飲んでみると、かぼちゃ由来の奇妙な甘さと香りが、ビールに清涼感を求める消費者の口にどう考えても合うはずがなく、これで定価がビール並みなら、大量に売れ残るのもむべなるかなという印象だった。味的にも価格的にも、かぼちゃがなにひとつ良い働きをしておらず、かぼちゃもこんなことのために大地に根を張り実を膨らませたのではないはずだった。

しかし若き日の私は、製法上はほぼビールであるものをこの値段で飲めるなら意外と悪くないぞ、と思って、スーパーに行くたび1,2本買ってごくごく飲んでいた。しかしそんなオレンジ色の夢の日々はすぐに終わりを告げる。私しか買っていないようにすら見えたザ・パンプキンの不良在庫は店頭から姿を消し、それっきりサントリーがかぼちゃ味のビールを再販したという話は聞かない。『ハリー・ポッター』のバタービールならホグワーツまで行かずとも大阪に行けば飲めるが、私の思い出のかぼちゃビールは、サントリーがもう一度とち狂わない限り二度と飲むことはできない。

今回の芋ビールはというと、こちらも芋のせいで発泡酒を名乗らざるを得なくなっていて、あの味にすこし似ている気がする。あのころと違うのは、これを定価で買っているということである。

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※※※閑話Q題※※※

『〈賄賂〉のある暮らし』を読んだ。

経済にも法にも疎いので的外れな感想かとは思うのだが、ここで扱われている、カザフスタンにおける賄賂の授受と似た生活密着型の道義的逸脱が日本だったら日々どこで発生しているだろうと考えたとき(日本にも贈収賄で捕まるやつはいるだろという真っ当な指摘はさておき)、いわゆる「転売ヤー」なのかなと思いながら読んだ。なんというか、もちろんどちらも基本的には己の利益確保を最優先にやっているに違いないのだが、一方で、制度のほうに不備があるから、それを自分たちが埋めてやっているんだ、という感覚が根底にあるのではないかと感じる。

転売という行為は市場の機能への不信から来ている、つまり、欲しがっている人たちはもっと高い値段でも買うはずのものをそんな「良心的」な値段で売っちゃって馬鹿だなあという心性に起因していると思うのだが、公的サービスについてそういうことが起こっている、というのが本書の提示する限りでのカザフスタンの実情ではないか。警察にしろ法曹にしろ教育者にしろ医療従事者にしろ、自分たちが手にしている公的サービスの本来の価値が十全に評価されていないと考え、ならばとそのサービスの価格を勝手に設定しなおし、(あくまでも彼らの考える限りで)適切な場所に適切な速度で届くように個人間で取引する。そのサービスを確実に、あるいは早く手に入れたい人は、提示された額を払えるのであれば払ってしまう。そこには経済的な合理性がなくもない。それでなんとかうまく回っている部分も確かにある。だが公的なサービスというものは、ほうっておくとそうした「経済的な合理性」に飲み込まれてしまうからこそ、きちんと整備してそこから引き離しておかないといけないのじゃな?

どうしてそんなことを考えたかというと、あまりカザフスタンの事情を別の宇宙のことのようにとらえてもいけないと自らを戒めたというか、一度できあがってしまった仕組みを人ひとりの力で変えることはほとんど不可能事に近いのだからシステムに隙があれば突こうぜ、という駄目ライフハックカザフスタンでも日本でも発生し得るよなあと思いながら読んでいたからである。まあ、資本主義経済下でものを売り買いすることと、公的な財産を勝手に私有して取引の材料とするのとでは天と地ほど違う(そもそも後者はカザフスタンでも犯罪だ)し、本書に出てくる教育関係の腐敗などを見ると、正直日本はここまでではなくてよかった、という安堵も感じてしまうのだが。