やさしい おんな やさしくない おんな そんなの ひとの かって

6月11日で公開期間は終了してしまったが、とある映画配信サイトでウクライナジョージアルーマニアなどの日本未公開映画を配信していて、そのラインナップにロズニツァの未見の作品が含まれていたので視聴した。こういうのは地方住まいの人間には本当に便利で、助かる。ところでいつも迷うのだが、映画の「国籍」って監督の国籍に紐づくのだろうか、それとも撮影場所なのか、使用言語なのか、あるいは出資者なのか。今回の作品はウクライナ、オランダ、ドイツ、フランス、ラトビアリトアニア、ロシアが制作に関わっているそうだが。


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これまで見てきたロズニツァ作品は『ドンバス』以外ドキュメンタリーだったが、今回はフィクション。『ジェントル・クリーチャー』という邦題は、ドストエフスキーの短編小説「やさしい女(Кроткая)」の英訳版の題名から取られていて、もとは映画も小説と同じ「クロートカヤ」という題である 。ウクライナ人が監督だろうが使用言語がロシア語だろうが、とりあえず外国の映画は英語にしておこう、というのはちょっと乱暴ではないかと思う。日本語だと「クリーチャー」という言葉にはまた別の語感がつきまとうし、そもそも「ジェントル・クリーチャー」とだけ言われても何のことかさっぱりわからない(サカルトヴェロ映画の『ビギニング』のほうも見たが、これもなぜ英語なのか。原題はグルジア語で「始まり」ではあるみたいだが*1)。「非英語圏映画の安易なカタカナ英語邦題を許さない僧兵集団」がいるなら、ぜひここに来て懲らしめてもらいたい。

「非英語圏映画の安易なカタカナ英語邦題を許さない僧兵集団」のイメージ

少し前に「死ぬまでに観たい映画1001本」をすべて見て話題になっていた映画フリークの方が、2019年に『ジェントル・クリーチャー』をすでに見て感想を書いておられ、「ちょっ早(ぱ)や……」と感じ入ったが、たしかにこの方のおっしゃる通り、ドストエフスキー「やさしい女」の風味はどこに行ったの?という感じで、カフカ『城』のほうにより近いのではないかと思わせる作品だった。

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本作のストーリーは、主人公の女性が、刑務所に収監されている夫に送った差し入れの品が理由もわからないまま返送されてきたために、現地に直接届けに行こうとするところから始まる。彼女はたどり着いた先の刑務所の受付でも荷物を突き返され、それでもあきらめて帰りの列車に乗る気にはなれず、夫へアクセスする手段を得るため町中の伝手をたどって右往左往する。これだけを聞くと、いったい何がおもしろいのかという反応が返ってきそうだ。ひとつには、刑務所を軸に成り立っているロシアの地方の小都市の退廃を眺める、という露悪趣味的なおもしろみはあるかもしれない(「ロシアの地方の小都市の退廃を眺めてぇ~!」という需要がどこかにあるのかは知らないが)。しかしそれだけでなく、随所にこの物語をカフカ的な不条理劇へと変貌させる鍵のようなものが仕込まれている。

たとえばその夫についての情報がほぼ明かされない点。最初主人公は夫が殺人の罪で投獄されていると述べているが、そのあと複数の人間に対して「なにも(していない)」「誰も(殺してない)」と返答するシーンが出てくる。もちろんセンシティブな情報を見ず知らずの人間に明かす義理がないというだけのことではあるのだが、罪状を偽るでもお茶を濁すでもなく「なにも」と言い張るのはいささか奇妙である。主人公が駅で荷物検査をされたあとに警察にサインをさせられるよくわからない調書には「テロ行為が原因で逮捕」云々という文言が出てくるのも不思議だ。いったい主人公の夫はどんな名前のどんな人なのか?かつて何をしていて、何をしでかした人なのか?本当に罪を犯したのか?そもそも夫は本当に目指す刑務所の中に存在しているのか(いつの間にかほかの刑務所に移送されてるってこともある、という登場人物の何気ない発言も気を引く)?本作の目的にして終着点であるはずの「夫」という存在は、主人公がただただそこに吸い寄せられていく〈真空〉に過ぎないように思えてくる。「夫に荷物を渡す」という指示だけをプログラミングで書き込まれたかのように、ほかにほとんどなんの意図も感情も示さない主人公の存在も、実はずっと不可解なのだ。

ロシア語圏でも当然のようにカフカとの類似は指摘されていて、監督本人にも質問が投げかけられている。このインタビューではまず、ドストエフスキー「やさしい女」について、当初シナリオを書き始めたときはこの短編の筋を、ヒロインが身を投げるというラストだけを変更してある程度までは踏襲する予定だったが、それが「(物語の)空間に対する暴力」だと感じて、いっそ「やさしい女」のストーリーからは離れることにしたと述べている。つまり、「やさしい女」の設定を借りてくるなら、必然的にヒロインは自殺という帰結に至るはずなのに、そこだけを変更するのは不誠実だと気づいたということだろう。

イデアそのものが変わりました。これは国家という機械の圧力を体験するひとりの人間のストーリーではなく、どのように権力の構造が形づくられるのか、そしてその構造がそこに住む人たちとの関係においてどのような振る舞いを見せるのかについての物語なのです。市民に対してというより、臣民に対しての態度、と言ったほうがよいのでしょうね。これがこの映画の主題です。直接的にはなく寓意的に語られていますし、芸術としての形式をまとってはいますが。

どうもロズニツァは「やさしい女」の、若く純粋なヒロインの精神が、より立場の強い、自己愛の塊のような人間に押しつぶされていくという悲劇にフォーカスする予定だったものが、それを逆から見た「他人に対して権力を及ぼすことを自分に許した人間はどのように振る舞うのか、そこにはいったいどういう構造があるのか」というテーマに乗り換えることにしたようだ。そうして「ジェントル・クリーチャー」のストーリーも舞台もまるっと変更し、より寓意的な物語に書き換えていったらしい。

カフカは世界の文化全般に非常に大きな影響を与えたと思います。なぜなら、人がこうした不条理な状況に陥るとき、ここで映画『アウステルリッツ』に話を戻しましょう、なぜならまさにこうした場所において不条理な状況は発生するからですが、そうしたとき人は即座にカフカの寓話を思い出すものだからです。カフカに「流刑地にて」という短編がありますが、そこでは感傷的な主人公、そうつまりカフカの登場人物が皆そうであるように、その人物がそこで感傷的であることがどれほど場違いであろうと、そんなことには関係なく彼を感傷的な主人公と呼びますが、彼は新しい拷問器具を見せられ、それがどのように作動するかを聞かされます。この話を思い出したのは、自分がブーヘンヴァルト強制収容所の火葬場に向き合っていることをふと意識したときです。解放されたブーヘンヴァルトの写真をはっきりと覚えています。そこには殺された人々の体が横たわり、焼却の準備がされていました。そのひとつひとつを私は見比べることができた。そんなところで自分はどうあるべきかなんてわかりません。つまり、どう振る舞えばいいのかわからない、それが一体何なのか理解できない、そんな場所があるんです。そしてカフカは、そういう場所の周りに寓話を組み立てていく。私はこれをある種の「裂け目」ようなものと考えています。特定の行動規範や人生の語り方というものがあるのに、突然そのナラティブにまるで収まらない裂け目にぶつかるときのそれです。

今回の『ジェントル・クリーチャー』、ドキュメンタリー作品『アウステルリッツ』、そしてカフカの『流刑地にて』には、監獄・収容所という共通点が存在する。ロズニツァがそこに見て取っているのは、人間の持つ常識や規範のようなものがすべて吸い込まれてしまうような「裂け目」だという。権力とはそれ自体「裂け目」、空白であり、善なるものを無化する力であるという見立ては、なるほどストーリーとしては遠く離れてしまったけれど、ドストエフスキーの「やさしい女」と地続きに見える。

本作は、そうした「裂け目」にひたすらに主体性を吸い取られていく人々を描いているものであると言ってもよい。本作がカンヌで上映されたとき、最終盤に20分以上続く、主人公が見る夢のシーンが物議を醸したそうだが、このシーンについて監督本人が(すこし多弁すぎる感もあるが)解説をしている別のインタビューがある。

映画のこの部分で何が起こるのか、分析してみましょう。これは夢の中の出来事です。彼女はどこか謎めいた場所、古めかしいお屋敷に連れてこられます。屋敷の中には円柱付きの会館がある。これは「組合の家」*2の円柱の間を参照してます。そのあと主人公は、彼女についての証言であったり、彼女に対するなんらかの審理であったり、あるいは請願であったりを目にすることになります。何を模しているのかはよくわからないけど、なんらかのアクションを。なにはともあれ、結果としてある評決が下され、(夫との:原文註)面会の権利が彼女には与えられる。さてこの劇の最中に非常に重要なことが起こります。この儀式を取り仕切る将校、刑務所の所長が、主人公が映画の中でずっと対立してきた権力とは何かを定義するのです。彼が言うのは至極単純なこと、これはあなたがただ、あなたがたの支えがなければ私は支配できないのだ、ということです。これらすべてのことをやっているのはあなたなんです、私じゃないんですよ、と。そして彼らは、主人公が夫に会う権利があることをさも親しげに彼女に伝え、彼女を処刑に向かわせるのです。楽しそうに、微笑みながら、偽善的に、彼女をこんな地獄に送るのです。ここにはとてもシンプルな思想があります。私たちはこういう考え方をしますし、それはどこにでもあるものです。要は、悪い暴君、悪い上司というものが存在するという考え方ですね。ほら見ろ、同志スターリンは悪いやつだった。ほかのみんなは不幸だった、犠牲者なんだ。ほら、同志ヒトラー、彼は悪かった、ほかのみんなは犠牲者だ。そして、私たちはそれにあっさりと同意してしまう。私は、これは完全に間違っていると思うので、別のコンセプトを提案します。ヒロインを取り巻く人たちは皆、当局が彼女に何をするかについて、すべて責任を負うのです。つまり、私はこの映画で何をしたんでしょうか?映画が終わる20分ほど前に、映画のテーマをまったく違うものに変えてしまったのです。それから、このアンチ・テーマを追加で持ち続けながら、映画のテーマ、ヒロインの運命に立ち戻りました。この宙返りこそが、私が最後の25分間で行ったことです。 

「処刑に向かわせる」というのは、言われて初めてラストシーンってそうなの?と驚いた(今もってよく呑み込めていない)が、ともあれ、権力というものについてイメージする際、人は大体「中心」にどっかり鎮座する権力者と、それ以外のいわば「周縁」的な存在とを切り分けて考えたがるという指摘はその通りである。だがロズニツァの考えるところによれば、「あなたがたの支えがなければ私は支配できないのだ」と会合の参加者に媚態を振りまく権力者の空疎さを埋めるのは実は周りの取り巻きで、彼らこそがその中心を中心たらしめている。まあ、いかにも現代思想っぽい発想ではあるが、納得感はある。刑務所の最寄り駅に降り立った主人公を乗せる白タクの運転手は、「俺らのところじゃ刑務所ってのは聖地なんだ」と、刑務所の存在に感謝しながらおしゃべりを続ける。老子の「三十の輻は一轂を共にす。其の無に当たりて車の用有り」じゃないが、内部がどうなっているのか誰にもわからない強大な「空虚」を中心に抱えていればこそ、町の経済が、世界が、まがりなりにも回転を続けている、このあたりも非常に『城』的である。権力の周りに群がる人間が権力の周りをぐるぐると回り続けること、それこそが権力の駆動力の源であり、彼らこそが権力のエンジンとなる。

上に説明してきたような抽象的な権力論を、監督はソ連・ロシア・ウクライナ的な文脈にのみ押し込めておくつもりはないだろう。とはいえ、本作がどこの国のどんな文脈にも通じる寓話としてのみ語られることもまた不自然だ(「カフカ的」という言葉は説明としては便利すぎる)。本作は基本的にロシア、ソ連という固有名から逃れられない。たとえば先述の夢のシーンは、アブラゼ『懺悔』が見せた独裁者の滑稽かつ悪魔的なイメージに雰囲気としては似通っていたし、次々と降りかかる災難という意味では、ズビャギンツェフ『裁かれるは善人のみ』のヨブ記を下敷きにした神話的空間と根っこのところで響きあっているとみなすことも可能だろう。それでもやはり(『懺悔』がスターリンという一個人の生から、『裁かれるは…』がロシアの地方都市の陰鬱さというリアルから、それぞれ切り離されはしないように)本作の基盤ないし規範はリアリズムに置かれている。レーニンの彫像やらジェルジンスキー通りやらに代表されるソ連的表象は、ロシア社会には今もって普通に残存しているものだし、郵便局員や刑務所職員や警察官の不愛想で乱暴な対応、法に仁義が優先するギャングたちの世界観、人権活動家への陰湿な嫌がらせ、それもロシアの現実の一端である(もっとも、刑務所職員に会ったことはないしニュースでも見ないので、どんな人たちかは知らないが)。本作で次々と主人公の上に降りかかる災難、理不尽は、たしかにひどい話ではあるのだが、多少なりともロシア社会というものを経験したことがある人であれば、(もちろん誇張されている部分が無きにしも非ずだとしても)ロシアでなら起こりそうだなと思わせるリアリティを持っている*3

ドストエフスキーが、物理的にはリアルな時空間で物語が進む「やさしい女」に「幻想的な物語」という副題を添えたのは、物語空間で起きることがファンタジックだからというより、物語の描き方そのものが実際にはありえない、主人公の独白をすべて近くにいて書き留めていたとしたらこんな感じだろう、という空想のもとに書かれた作品だからであった。もちろんそんなことを言い出せば、あらゆるリアリズム小説は幻想譚である。南米で生まれた奇妙奇天烈なマジックリアリズムが、実は南米の現実を研ぎ澄まされた目で観察するところから生まれたのに似て、ロシアにおいては「今ここ」の現実を執拗にトレースすることが、即ち現実から遊離した不条理を映し出すことになってしまうのではないか。そういった意味では本作は、リアリズムであるがゆえにカフカ的な不条理が生まれている、そんな作品だと言えるだろう。そういえば、主人公が夫に持っていく差し入れ品の中にあったコンデンスミルクの缶詰は、ソ連の矯正労働収容所では囚人たちにたいそう重宝されていたことがシャラーモフ『コルィマ物語』に描かれている。今でもロシアだとそれが定番なのかどうか、ちょっとわからない。ただ、これもまた「ソ連的な社会の残滓」の比喩であると同時にロシアの現実の描写であるのかもしれない。主人公の夫が本当に「なにもしていない」のだとして、「なにもしていない」人間が次々と「裂け目」に吸い込まれ意味もなく消し去られていく時代の周りを、人はまた途方に暮れながらうろうろしている。

ブレッソンの『やさしい女』が原作にそれなりに忠実だったのとは対照的だが、「やさしい女」を読んで出力されるのがこれだとするなら、ロズニツァの人生のチューニングはかなり独特である。個人的な好みだけで言えば『ジェントル・クリーチャー』に軍配を上げたい。なにがドミニク・サンダだ、若い女をちょっとエッチにかわいく撮ってる場合か。若い女をちょっとエッチにかわいく撮ってる映画を許すな。

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ドミニク・サンダで思い出したが(?)映画の作りとはまた別のところで印象深かった点を述べると、親切なふりをして主人公に近寄ってくるジンカという女性を演じた女優の迫力である。映画の中では、はっきり言ってどこからどう見ても美人とは言えず、ただただその醜悪さのみが放射されるようなキャラ造形をしているのだが、このマリーナ・クレショヴァさんという女優のWikipediaを確認したところ、短く刈り込んだ白髪でビシッと決めている姿はなかなか格好よく、女優の変わり映えってのはすごいものだと印象深かった。俳優たるものこうであってほしい。無知ゆえ全然知らんかったが、ほかにもセレブレンニコフの『生徒』『LETO』『インフル病みのペトロフ家』をはじめ、いろいろ出演している有名な女優さんのようである。

クレショヴァ氏演じるジンカは、その迫力にふさわしく物語の重要な場面で印象的な役割を果たすことになるのだが、実は主人公が最初、自分の家の近くでバスに乗っているときに、乗客たちが最近起こったある殺人事件に関わっていた「ジンカ」という女性について奇妙なうわさ話をしていた。この会話の中でわざわざ「この辺にジンカなんて女は一人しかいない」と断っておいて、遠く離れた刑務所の町で同じ名前の女性を登場させるというのもまた不思議な仕掛けだ。登場人物のひとりが終盤の夢のシーンで読み上げる詩がドストエフスキー『悪霊』のレビャードキンの詩だったりもするようだし、ほかにも気づいていないだけでそういった仕掛けが多く隠されているのかもしれない。ストーリーがシンプルなわりに、ある種スノッブな読解を誘う建付けになっていて、そのあたりがこれまでのロズニツァ作品に比べて本作を楽しめた理由だと思う。

ところで『ジェントル・クリーチャー』を見たあと、この映画にどこか「やさしい女」と繋がるところはあったか?と思って、あらためてドストエフスキーの原作を本棚から引っ張り出していた。そしたらこれが爆裂傑作で、映画の印象がどこかに吹っ飛びそうになってしまっていたのだった。文学が人格の陶冶に役立つなどという謳い文句をもはや誰も信じなくなっている昨今、ドストエフスキーはかろうじて今も教養としての地位を保っており、ときには早熟な中高生が10代で5大長編読破しちゃいました的なカマシを入れるなどしており、私もかつてはそういった人々に憧れてわけもわからず一生懸命読んだものであり、しかし今この歳になってドストエフスキーを読み返してみると、10や20かそこらの若人がこれを読んで、この緻密に描き込まれた、喜怒哀楽に分類されない無数の感情の粒子の重なりを十全にとらえ得るものだろうか?文学作品とはただ読むべきではなく、「読むべき時期」に読むべきものなのではないか?と、深く考え込まされてしまった。もちろん「この本は〈今・この・私〉だけを目がけて書かれたのだ!」と、老若男女どんな人間にも思い込ませてくれる作品というのは、それだけで名作の資格を持つのである。次また35年後くらいに「やさしい女」を読んだらどう思うのか、楽しみにしておきたい。生きてれば。

【本稿の結論】「やさしい女」を読め。

*1:『ビギニング』については今回特に感想は書かないが、一点だけ。これは『ジェントル・クリーチャー』もそうなのだが、女性に降りかかる災難のテンプレートとして非常に激しい性暴力のシーンを導入している。似たような描写を続けて見せられたからかもしれないが、これは私には安易なものに感じられた。「安易」という言葉を選んだのは、これが政治的な観点からの批判というより(それがないわけではないが)、「災難」というものに対しての想像力が凡庸に過ぎることへの不満だからである。

*2:(モスクワ中心部赤の広場から間近にある、1780年代に建てられた邸宅。ソ連期にモスクワ労働組合中央議会が置かれていたため、今の名で呼ばれる。

*3:上に紹介したnoteの記事では、主人公が降り立つ「オトラードノエ(Отрадное)」という駅名が、英語では「joyful」を意味し、「そんな駅名はない」ことを以て、この映画が「"リアリズム"と"メタファー"の映画ではなく徹頭徹尾"メタファー"の映画」であることの根拠としているが、まず事実として当該の地名はロシア各地に存在するし、なんならモスクワの地下鉄駅のひとつに「オトラードノエ」駅はある。むりやり日本語に置き換えれば「喜田」みたいな地名なわけで、そこまで不自然さは感じない。もちろん、刑務所のある駅が「喜田」駅であることがわざわざ大写しにされている点は、映画芸術としては意味があることだろうとは思うが。完全に余談だが、2012年に短期間モスクワに滞在していた際、間借りしていた家の最寄りの地下鉄駅が、メトロの路線最北端の終着駅アルトゥーフィエヴォというところだったのだが、そのふたつ前の駅がこのオトラードノエだった。だから「次の駅は~、オトラードノエ~」というアナウンスは、なんとなく耳が記憶している。兵役めんどくせえと笑っていた家主の息子、元気かな。