とっても大好きコルネリア

「じゃ、没落の後は、なにが来るのかしら?」

ファビアンは、鉄格子のうえに垂れている小枝をむしり取って、こう答えた。「愚かさが来るんじゃないか、と心配してる」

 

ケストナー『ファビアン:あるモラリストの物語』より*1

『さよなら、ベルリン:またはファビアンの選択について』を見たということが言える。言えてほしい。

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ものはついでということで、先にケストナーの原作のほうも読んだのだが、作家唯一の大人向け長編小説にして最高傑作という触れ込みではあったものの、正直完成度としてはどうなんだろうという印象が残った。面白くないわけではないし、ところどころ唸る描写はあるけれど、著者本人の「この本にはストーリーがない。建築のような構造がない。目的にかなって配分されたアクセントがない。読者を満足させる結末がない」*2という言葉が謙遜として機能しない程度に、物語の筋にはまとまりがなく、ラストもだいぶ唐突感があり、かなり粗削りな作品と感じる。

翻訳に目を向けると、1951年に新潮文庫から出版(小松太郎訳)されたのち、それが1974年に東邦出版社、1990年にちくま文庫から再版され、2014年になってやっと丘沢静也氏による新訳がみすず書房から出ている(漏れがあったらスマソ)。古典的名作と見るやひたすらに同一作品の新訳が出まくる我が国にあって、作家の知名度に比してだいぶ少なめな翻訳の試みを見るに、日本ではさほど評価されてこなかった様子もうかがえる。*3

そんだもんで映画のほうではストーリーに大胆な再構成を加えることで、物語にきちんとした(具体的には悲劇的なラブストーリーとしての)骨組みを与えようと必死になっていたように見える。プロットの時系列や、ファビアンがヒロインのコルネリアと出会うきっかけ、ヒロインとの関係の深さ、あるいは原作では一本筋の通った好人物だった人間が体制におびえる小心翼々とした小人物にされてしまうとか、要所要所でがらりと変わっている。

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『ファビアン』訳者の丘沢氏によればケストナーは、彼を「左翼メランコリー」という文章で批判したヴァルター・ベンヤミンに代表される「ラディカル左翼」が目指した、階級闘争を通した社会の全面的改革への強い意欲を持たず、理性による穏健な啓蒙と漸進的改良を唱える「リベラル左翼」であった。であるから彼はナチス政権に対しても、従来言われていたように真っ向から立ち向かったというよりは「ささやかな妥協」をした面があるのだという。

小説から映画へと、間髪入れず摂取して感じ取ったのは、ひょっとするとファビアンと彼の友人であるラブーデの関係は、ケストナーベンヤミンが結んでいたような関係と遠く呼応しているのかもしれないということである。ケストナー作品にはびこる安逸を非難し、鮮烈な革命思想を構築した末に絶望のなかで毒を仰いだベンヤミン。親友ファビアンを叱咤しながら民衆のための政治活動にのめり込み、些細な行き違いから自らの頭を撃ちぬくラブーデ。時代に名を刻むのは常に、少し向こう見ずで前のめりで直情径行でラディカルで、だけど繊細で折れやすい人々である。ケストナーはそういう人ではなかった。どちらかというと凡庸で、それゆえに強かだった。ファビアンという人物像には、作者のそうした性情が現れ出ているようだ。そして、そうした性情に対する作家本人のいら立ちも同時に。

当該書籍が手元になく、遠い昔の記憶を掘り起こして書いているので間違ってたらすまないンゴねぇという感じだが、ジョージ・スタイナーはその著書『マルティン・ハイデガー』で、20世紀初頭の戦間期ハイデガーの『存在と時間』やシュペングラー『西欧の没落』、ローゼンツヴァイク『救済の星』、またそこにヒトラーの『わが闘争』も加わり得るが、そうした包括的な問題を扱う大部の著作が立て続けに登場した背景には、第一次世界大戦後の荒廃のなかで、瓦解していく社会の再統合に寄与する言論の登場が切実に希求されていたからと説いた。『ファビアン』もまたそうした時代の不安を背景に、なんとか理性の細い糸で壊れゆく社会に継ぎを当てようとする(そしてあまりうまくいかなかった)試みだったように思える。

映画のほうではそうしたケストナーの思想は後景に退いて、ファビアンとその恋人コルネリアの(若干チェーホフ『かもめ』を思わせる)すれ違いの悲劇がより強調されている。原作読んでない人は、簡便な字幕だけでケストナーの思想や登場人物たちの機知に富んだやり取りを理解するのは難しかったように思うし、それで余計ストーリー重視の作品に見えたことだろう。かくいう私も、ファビアンとドレスデンの実家から出てきた母親との交流を描くシーンは、ファビアンと私の年齢や境遇がそう遠くないこともあり、グッとはきた。ガッ!

でも、ファビアンという人物と対比させたときに大事なのは、やっぱコルネリアではなくてラブーデのほうなんだと思う。だから、見ていて面白いのはコルネリアとの悲恋を前面に押し出す映画のほうだが、ケストナーの思想を知るなら当然原作ということになる。

吉祥寺のアップリンクで見たので、吉祥寺の「トニーズピザ」でピザ。理屈が通っている。

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*1:エーリヒ・ケストナー『ファビアン:あるモラリストの物語』丘沢静也訳、みすず書房、2014年、106頁

*2:同上、266-277頁

*3:もちろん、児童作家としての顔が強調されてきたケストナーが『ファビアン』で見せる猥雑な側面が、日本では不当に低く評価されてきたという見方もできる。そもそもこれは論証にはなっていないし、翻訳のない名作なんて星の数ほどあるだろうから、卑怯な言い方っちゃ言い方だが