サラダ文化の貧困、スカイブルー帝国の無邪気さ

都会は狭い。

そしてその居心地の悪さは、繁華街のコーヒーショップチェーンにおいて最大限発露する。スタバだろうがドトールだろうがエクセルシオールだろうが、お昼時を過ぎて皆が一服しようかという頃合いになると、押すな押すなの大騒ぎで、まともに席が空いていることのほうが稀だ。

※これはロッテに入団したオスナ

なのでわたくしという現象は、おやつどきにコーヒーでも飲もうかというときには、モスバーガーとかフレッシュネスバーガーとかケンタッキーとか、とにかくコーヒー店ではないけどコーヒーを安く出す飲食店になるべく入る。ドトール鮨詰めに座って茶をしばいている人々は皆、こうした店々の存在を忘却し去っているようである。

ただひとつ言いたいのは、フレッシュネスバーガーのコーヒーはマジで爆裂に薄くて、ほとんど感動すら覚える、ということだ。コーヒーを飲んだことがない小学生が一生懸命淹れてくれたのかもしれないし、西部開拓時代のアメリカンコーヒーってこうだったのかもしれない。コーヒーのなんたるかを知らない、あるいはインディアンの猛攻を避けながら適当に砕いた浅煎りのコーヒー豆をアルカリ性の強い水で煮出したのでなければ、どうしたってこの味は出ない。

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ところでそのフレッシュネス屋で映画の上映までの時間をつぶしている間に、『LAフード・ダイアリー』という本を読み終えた。

本書に出てくる料理はどれもとてもおいしそう(それが特においしくないものとして紹介されている時であってもなんとなく魅力的)で、特にうまそ過ぎるタコスについて読んでいた時には、たまたま近所のチキン屋でメキシカンタコスバーガー的なメニューを見つけてたまらず注文してしまったほどだ。

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私がある程度の長い期間滞在したことがある外国はロシアだけだが、異国に着いてすぐの、住居が決まらないうちの居たたまれなさ、落ち着いて飯が食えないストレスはなんとなく共感できてしまう(ただ著者には当時5歳と2歳のお子さんがいたということなので、その点は想像するに余りある)。それから、アメリカではじめてサラダの真のうまさを理解した、みたいな文章が出てくるのだが、それは僕もロシアで似たようなことを感じた。というか、サラダといえばレタスとキャベツの酸っぱい和え物でしかない日本のサラダ文化の貧困に気づいた、というべきかもしれない。ロシアのサラダもまあ基本マヨネーズ味っちゃマヨネーズ味なのだが、そうは言ってもバリエーションは豊かで彩りにも気合が入っており、数合わせで合コンに呼ばれでもしたかのように食卓の端で不貞腐れている日本のサラダとは顔つきが違う。

本書の主題ともいえる、ロサンゼルスという街が持つ作り物感、そしてそこからくる皮相さ、うさんくささ、儚さに僕はおそらく『アンダー・ザ・シルバーレイク』とか『ラ・ラ・ランド』といった映画作品でフィクションという形ではあれ既に出会っていて(『ラ・ラ・ランド』がハイウェイのシーンから始まるのは意味があったのだな)、映画研究者の著者がこれらふたつの作品名に本書で言及しなかったのは、おそらくあまりにもそのまんま過ぎて言うまでもないからだろうけど、ともあれ現地人もロサンゼルスのなんとなくの空虚さみたいものには意識的だからこういった映画が出てくるのではあろう。

ロサンゼルスで移民たちが作り出す食の多様性を著者が謳歌できるのは、結局のところ、大学教員という一般にはハイステータスと見なされる職にある著者が、しかも1年間サバティカルを取って家族4人で海外移住し研究以外のことをしなくてよいという恵まれた環境にあるからでしかないのでは?という疑問はこれを読む人なら誰でも抱くだろうが、予想されるそうした反応には一応のところ第12章「多様性と画一性」で回答が提出されていて、私はそれなりに納得した(もっとも納得させるべきは私ではなく、著者が仮想敵に置いているトランプ支持者的人々なのだろうけど)。ちなみに、ロサンゼルスには多種多様な民族の食文化が集まっていて最高!というのとほぼ同趣旨の発言を、僕はモスクワでロシア人からモスクワについて聞いたことがあり(「モスクワの食文化の魅力は多種多様な民族が作っていて……」)、一般にそうした発想は「帝国主義」的と名指されると思うが、ロサンゼルスの陽光に照らされるスカイブルーの帝国と、モスクワの長い冬に閉ざされた灰色の帝国では、どうやら世間の見方もだいぶ違うようではある。

さて高田馬場で映画『ドンバス』を見た帰り道、懐かしい匂いに振り返るとケバブ屋があった。モスクワで中央アジア人の店員がくるくると巻いてくれ「シャウルマ」の名で定着している画一化されたトルコ料理であるケバブの思い出が東京の路上で日本人の鼻をくすぐること、こうした経験も著者の言う「記憶の襞」に関わる事柄であり、食の醍醐味だろう。実際、オーブンで軽く温め直したシャウルマをビールで流し込むと、これ以上ないくらいうまい。あまり熱々にしてしまうと中の野菜に火が通り切ってしまうので、軽く、でいいと思う。

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