Dear Comrade Girls!

ちょい前の話になるが、今年のお正月休みに、話題作の逢坂冬馬 『同志少女よ、敵を撃て』を読んでいた。

ミリタリーもののエンターテインメントに対しては若干の苦手感があるので、普段こういったタイプの本はあまり読まないのだが、珍しくソ連が舞台の国産小説だったり、信頼できる評者が褒めていたり、アガサ・クリスティー賞を過去最高評価で受賞!みたいなうたい文句にも踊らされたりで、いそいそと手に取った。

読み終わってひとまずの結論は、正直なところ「Not for me」という感じではあった。ただ上に述べたとおり当時(直木賞にはノミネートされてただろうか、本屋大賞を取るよりはだいぶ前のことだが)から世間の評判は非常に高く、世間はどういったところに面白みを見出しているのだろうと、ソ連文化に興味を持つ者として引き続き気になっていた。

そうして何の気なしにAmazonの商品ページのレビューを見ていたところ、一番上に出てくるレビュー(残念ながら現在もそうだが)が、ほとんどいちゃもんでしかない上に文章もガタガタのひどいもので、批判するにしてももうちょっと書きようがあるだろうと思い、初めてのことではあったがAmazonレビューに少し長めの感想文を投稿してしまった。Amazonで買ったわけではないのに感想だけ投稿するというのは(できるようになっているのだからルール違反ではないにしろ)あまり品は良くないと思ったのだが、そのトップレビューに対するカウンターの意味合いも込めて、なるべく公正でまともな書評になるように努めたつもりである。それでも匿名で批判だけ投げているのもどうなのだ、と思ったので、半顕名?ぐらいの状態にはなっているこちらに転載しておくことにしようと思う。

題名はもちろん鶴見俊輔「言葉のお守り的使用法」をもじったものだが、思い付きでパッとつけただけなので、正しい使い方になっているかどうか、今になって自信がなくなってきた(笑)そんな程度の走り書きなので、ご笑覧ください。ねえ、笑ってよ。

 

【以下転載(副音声付)】

フェミニズムのお守り的使用法(?)」

NHK「100分de名著」でノーベル賞作家アレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』(岩波現代文庫)の解説を務めた東京外国語大学沼野恭子教授の書評(推薦文)をたまたま目にする機会があり、興味をひかれた。

著者の筆力については、すでにプロの評価(アガサ・クリスティー賞を審査員満場一致で受賞!)や売り上げ(出版後即重版!)という形で客観的に結果が出ているので、こちらからとやかく言うこともない。参考文献表の提示や専門家からのチェックもしっかりなされているようだし、学術的な裏付けに対する誠実さの面でもエンタメ作品としては申し分ないものだろう。ただ内容面*1で、読み終えて少しひっかかる部分があったので、この割り切れぬ気持ちを書き記して他人の判断を仰ぎたくなった。本書をことさら強く批判しようという思いはあんまりない。読む価値はあると思う*2

前置きになるが、独ソ戦をテーマにしたエンタメ作品はロシアでは毎年のように作られていて、たとえば近年に限っても『ヒトラーと戦った22日間』『T-34:レジェンド・オブ・ウォー』『1941:モスクワ攻防戦80年目の真実』『ナチスバスターズ』といった新作映画が、実は日本のそれなりに大きな映画館で上映されていたりもする*3。どうしてこういった作品群がロシアでじゃんじゃん撮られているかといえば、毎年5月9日の戦勝記念日に合わせるような形で、国からの支援も受けて振興される産業になっているからだ。

そうした映画はお金がかかっているだけあって、エンタメとしてだけ見ると正直かなり見ごたえがあって面白いものが多い。しかし当然のことながらそれらは「数多の犠牲を払ってファシストを倒し戦後の平和を作り上げたロシア」を誇示するプロパガンダとしての性格も色濃く持つものなので、『同志少女よ、敵を撃て』で取り上げられているような、戦時の性暴力・男女間の軍隊内での格差といったテーマは扱われない。男たちはもっぱら強く勇敢で、女子供を命を賭して守る存在である(別にそれが真っ赤な嘘だと言いきれもしないが、偏ってはいる)。こうした現状からすれば、現代日本の三十代の作者(性別は分からない*4)が『戦争は女の顔をしていない』を読んで感銘を受け、隠されてきた軍隊の中での女性差別というテーマを選び、独ソ戦を舞台に一本書こうと思い立ったことの有意義性というか批判的意味は小さくないとは思う。

ならば、評者が気になった点とはなにか。本書では三人称視点が取られ、語り手が主人公セラフィマを始めとする登場人物たちの心情を描写し、そこに独ソ戦の趨勢、大規模軍事作戦の概要、主人公たちが身に着ける狙撃技術等に関する解説を挟むという形でプロットが形作られている。そしてそこでは、たびたび用いられる自由間接話法(三人称の地の文のなかで、セラフィマを「彼女」ではなく「自分」と称したりするなどがその例)が、無垢な若者たちが否応なく戦争という「地獄」に直面し変わっていく様子を臨場感を持って描き出す。

……そう、臨場感をもって描き出しはするのだが、まずその話法のせいで、『戦争は女のしていない』とか松戸清裕ソ連史』(ちくま新書)とか大木毅『独ソ戦』(岩波新書)とかを読んでその知識を持っているらしい語り手(独ソ戦当時は到底知りえない情報を山ほど知っている神のような存在)と登場人物の境目がときに曖昧になって、セラフィマが1930~40年代のロシアの賢い村娘の限界を飛び越え、現代の日本の大学でジェンダー論かなにかを学んだ学生のように見えてきてしまう*5。(かつて妹尾河童『少年H』が似たような批判をされていたように思うのだが)どうも未来人がいきなり独ソ戦に従軍して、愚かな男どもを裁断しているみたいな違和感を覚えてしまうのである。これは先日リドリー・スコット監督作品『最後の決闘裁判』で、14世紀フランスに生きる女性主人公を見たときにも感じたことなのだが*6、「過去の空気と因習とパラダイムに同じように取り巻かれ縛られているはずなのに、どうしてこの主人公だけこんなにも賢いのか」という疑問は湧く。

どうしてこういうことになるかを想像してみると、おそらく独ソ戦という悲惨な人類史的経験を日本の作家が扱うにあたって、それを単なるおもしろおかしいエンタメ作品として提出するわけにはいかないからだ。何らかの社会性を帯びたテーマ(本作であればフェミニズム)を盛り込み現代的に「アップデート」することが必然的に要求される。これはハリウッドの娯楽大作などでも同じことだろうし、取り立てて不当な振る舞いとは思わない。ただそうした思想的・社会的な打算みたいなものを想定したうえで主人公の少女兵たちが繰り広げるいささかアニメ/漫画じみたやり取りを眺めると、結局この作品におけるフェミニズムというものが、ミリタリーファンに満足してもらえるような血沸き肉躍る戦闘シーンを、あるいは可憐でけなげでしかし酷薄で狂気にとらわれた魅力的な少女兵たちの描写を可能にするための、ある種のエクスキューズとして利用されているに過ぎないのではないか? フェミニズムと書かれたお札を買ってきて店頭に掲げたので、あとは好きに商売させてもらお、という話なのか? という警戒心が評者の心中に惹起されることにはなった(べつに独ソ戦を題材に『ガールズ&パンツァー』をやりたいわけではないんですよね? 信じていいんですよね? という)。

もちろんこれは、著者の側からすると不当な非難、邪推でしかない可能性も大いにある。というかたぶんそう反論されるだろう。だが著者は、たとえば沖縄戦を舞台に似たようなストーリーを書こうとは思わなかったわけで*7、勝者の側からぞんぶんに戦争を描きたいという(最初に紹介したロシアの映画ならば隠しもしない)欲求を糊塗する「お守り」としてのフェミニズムなら、それは危うい。

リベラルか保守かというのは表面的な差異に過ぎず、結局『同志少女―』(マッチョな男どもを正義のソ連少女兵が討つ!)と『ナチスバスターズ』(マッチョな美男子ドイツ将校を正義のパルチザンが討つ!)がやりたいことは、根っこの部分では同じなのではないか?という疑念。もちろんこうした厳しい目は読者の側にも(つまり評者にも)投げかけられるべきだろう。本作におけるフェミニズム的テーマは、ソ連ではなくナチス・ドイツの側に確実にいた大日本帝国の後裔たる我々が、戦勝国の目線に立ったエンターテインメントを楽しむことにつきまとううしろめたさを優しく包んでくれている、のか?

長々と書き連ねてきた。ノーベル賞作家と、本作が第1作目の新人作家を比べるのはあまりに酷というものだけど、やはり『戦争は女の顔をしていない』の多声的な証言が生み出す重みを、本作の「百合」的展開・ミリオタ的描写がスポイルしているという部分はあるんじゃないかなあ……。書いてて思ったけど、ちょっと著者に対して意地悪すぎるだろうか?そこまで求めんなよって?うーん、皆さんどう思われます?

【おわり】

 

以下、ネタバレ含む若干の補足。

あまり上手な文章ではないと自分でも思うので汗顔の至りだが、あらためて読み返してみて思うのは、この作品を読んでいた時に自分がおそらく感じていた不満とは「ここまで現代人の感性に寄り添うなら、別に独ソ戦じゃなくてもよかったじゃないの」ということだった。まあもちろん『暴れん坊将軍』を見て、徳川吉宗はこんな人じゃない!刀の鍔は「チャキッ!」って鳴らない!と怒ってみたところで、いやこれエンタメだから、の一言で終了なので、『同志少女―』だって同じことではあるのだが。要するに著者はあくまでもあと腐れなく読めるエンターテインメントを提供しているのに、私が別のものを求めていたということで、本記事冒頭で「Not for me」と書いたのはそういう意味合いである。

従来的なアクションにフェミニズムを塗して一丁上がりという作劇法は、おそらく現在かなりメインストリームになってきているのではないかと思われる。『ガンパウダー・ミルクシェイク』という、これもシスターフッドをテーマとしたアクション映画(映画自体はふつうに面白い)を見てあらためて思ったのは、昨今のエンタメ業界で痛快なアクションを撮ろうとしたとき、安心して倒せる敵役というのは、かつては「インディアン」「エイリアン」「ゾンビ」「ナチス」あたりだったのが、今般では「(フェミニズムの文脈における)男性」やあるいは「(レイシズムの文脈における)白人」になってきているのだな、ということだった。安心して暴力をふるえる相手、殺しても差し支えない相手を探し出すというのはやはり昨今どんどん難しくなってきているが、相手が差別主義者ならOK、という結論に今はとりあえず至った感がある。逆に『キングスマン』の1作目なんかを見ていると、世界を滅ぼそうとするような邪悪な敵でもそれが黒人であり、主役が白人である場合、相当な下準備と留保を積み重ねないと、黒人の敵役を倒してハッピー!というエンディングは迎えられないのだなということを感じる。

あまり「アンチフェミニズム」的なアレに絡めとられたくないので注意を要するが、ネット上のレビューの中でひとつ「セラフィマは100人以上戦場で殺しているのに、なぜ性暴力を犯す男性を断罪する側に何の留保もなく立っていられるのか」的な趣旨のものがあって、確かに、どういう理路で作者はこれに自分の中でGoサインを出したんだろうな?という疑問は持った。

もちろん、戦場で敵兵を殺害することと、民間人に(性的なもの含め)暴力をふるうことはまったく異なる次元の話だ。でもおそらく『同志少女―』の著者は本書で、戦争犯罪じゃなければOK!戦争犯罪はダメ!射殺!といった、紙の上の法律を守るか守らないかレベルの浅薄な主題を押し出したかったのではなく、もう少し人間にとって根本的な倫理観の話をしたかったのだろうと思っている。敵兵なら殺しても基本罪には問われませんというのは戦場のルールだが、そういう戦場の理屈にかつて親しかった人間がどんどん飲み込まれていってしまったのがセラフィマは悲しいのではなかったのか。

そうなると、百数十人の敵兵を殺した主人公と、戦場で民間人を性的に暴行したある登場人物との間に、どの程度の「人の弱さ」とか「他者」への想像力の違いがあったものやら、というのは、曖昧になってくるのではなかろうか。民間人の婦女暴行はダメだが、ナチス兵は人間ではないのでいくら殺してもノーカウントというのは、これは倫理というよりはエンタメ制作上のルールである。もっと言えば、どうも知らず知らず作者は現代ロシアの保守派の思想に近寄っていっているようにも見える(独ソ戦ソ連側の視点から扱えばそれは必定だ)。

こういったある種の二重基準のせいで、結局作者がこの作品で何を問いたかったのかがいまいちわからないまま私は本を閉じることになった。正確に言うと、作者が言わんとすることは120%伝わってきたのだが、それは作者側からの模範解答であって読者への問いではなかったという言い方になるだろうか。

ならばセラフィマがその後不幸せな人生を送れば満足なのか?と問われればそういうわけでもないのだが、なにか彼女がより魅力的な「ダークヒーロー」として立ち上がってくる可能性もあり得たのではないかと、こういう文章を今になってしつこくも書き連ねている次第である。本作におけるフェミニズムの扱いは、SNS上の意見などを見ているとどうやら絶賛される傾向にあるようで、私のものの見方が歪んでいるだけの可能性は大いにある。歪んでっぞ!というご指摘は受け付けます。

あとひとつ。この本を読み終わった後にリュドミラ・パヴリチェンコを主人公にした『ロシアン・スナイパー』(パヴリチェンコはキエフ生まれキエフ育ちの女性だが、この邦題でいいのだろうか)という映画を見たのだが、『同志少女―』で肝になる描写がいくつか『ロシアン・スナイパ―』中に見て取れた気がして、ちょっと影響を受け過ぎではないか?とは思った。はい、どっとはれ。

*1:「内容」と言いつつこのあと文体の話をしてますね。慙愧

*2:件のトップレビューに「読む価値なし!」みたいなことが書いてあったので、いや別に読んでもいいだろ、と思って書いた。なんだおまえは、格付けチェックか?

*3:ミリタリーが苦手とか言いつつ、諸事情によりまあまあ見てしまっている

*4:書いた時は逢坂氏が男性なのか女性なのか知らなかった。どうやら男性みたいです

*5:このへんは、実際に作品を読んでいるときに「あれ?ここは誰が考えてしゃべってるんだ?」となって、文章自体は端正なのに妙に読み進めづらい感覚を覚えたために書いたはず

*6:なぜここで唐突にこの映画の話が出てくるのか。それは単に面白かったからです。みんなも見てね

*7:このところは本文のなかで一番難癖じみていると思う