腑抜けども、テメェのすき焼きを見せろ

あまりにも昔のことになりすぎて若干引いているが、大学に入学して一人暮らしを始めたばかりの頃、授業や部活動についていくのも楽しいながらに多忙ななか、もう誰かが飯を作って俺を待っていはしない、ならばとにかく何か作って食べなければ死ぬのだわと、母だか姉だかにもらった料理研究家のケンタロウの本を繙いていた。

その後、ケンタロウレシピの肉じゃがなどを幾度となく調理して空腹を満たすこととなっていくが、実はこの本でもっとも印象に残ったのは、著者によるコラムの一節だった。いま手元に本そのものが無いので正しく引用はできないが、おおよそこんなような話だったと記憶している。曰く、一人暮らしで料理をすることの醍醐味というのは、自分の食べたいものを自分の食べたい量、食べたいときに食べられるというところにある、だから俺はこのエッセイを書き上げたら、玉ねぎのかき揚げを揚げて、それをつまみながら買い物に行く、と。

東京の料理研究家は、揚げたてのかき揚げを片手に散歩に出る!そんな鮮烈なイメージと相まって、私はこの思想に大変感銘を受けた。なんだか世間では「自炊=節約」的な貧相な発想が亡霊のように徘徊しているが、ちがう。自炊は解放なのだ。外食は外食で好きだが、食べたいものを食べたいとき食べたいだけ、というわけには到底いかない。

前の職場などでもそうだったが、私が独身男性だと知れると人からは時折(傾向としては、とりわけ歳上の女性から)「自炊するんですか?」と質問をされることがある。するので「する」と答えると、なぜか褒められる。しかし(これは私が勝手に考えていることで、Wikipediaなら「独自研究?」と注記がつくところだが)私には従来より「料理」と「自炊」は似て非なる営みのように思えて仕方がない。自炊はとにかく自分の腹が満たされることが先決で、人に食べさせるわけではないので見た目がどうとか栄養価がどうとかなど二の次、決まったレシピはないし、作り出したものに名前がついている必要すらない。味のついた肉を焼くだけでも、味噌汁だけ作ってあとは出来合いのメンチカツとビールでも、自炊は自炊だ。要するに「自炊」には「理」がなく「他者」もなく、食べたいものを食べたいだけ食べたいという原初的な自己保存の欲望に駆動されているに過ぎない。

過ぎないが、私はこの欲望をケンタロウに肯定されたことにより、30を過ぎるまで生きのびることができている。かき揚げを片手に夜の街を歩くという境地にはまだ至っていないものの、代わりに今日はすき焼きをひとりで好きなだけ食べている。トマトが入っているのは私の独自研究ではなく、そういうレシピをネットで見たのである。

結論としては、すき焼きにトマトはめちゃくちゃ合う。今まで一般的なすき焼きの具として採用されてこなかったのが不思議なくらいだ。すき焼きの甘辛い味がもたらす食べ飽きをトマトの酸味が緩和して、ばくばく食えてしまう。

30過ぎの独り身の男の自炊の写真ってほんと見映えが最悪(フライパンが皿だし)だが、そんなことはどうでもいい。なぜなら、あらゆる人間のもとにあらゆる見映えのすき焼きがあり、それらのひとつひとつが星だからである。

それはそうと、いずれまた浅草の米久のすき焼きでビールが飲みたい。