なぜめぐり逢うのかを、私たちは

この世界には、〈心を14歳に置いてきたおじさんたち〉が生きている。

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〈心を14歳に置いてきたおじさんたち〉は生命力に乏しく、安全な山奥では十分な糧を得ることができないため、ひと気のない夜などに水場や食糧を求めて人里に下りてくるケースがあるが、たいていは追い散らされるか、罠にかかり駆除される。

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そうは言っても、〈心を14歳に置いてきたおじさんたち〉は一目では人間と区別がつかないことも多いため、うまくすると人間社会に溶け込み、たとえば映画館などにたどり着く場合もある。やわらかいシートに腰を落ち着けることに成功した〈心を14歳に置いてきたおじさんたち〉は、ひとときの安らぎを得、それぞれの心の中で、「〈心を14歳に置いてきたおじさんたち〉のためにも世界があって良かったな」とほっとしている。私にはそれが手に取るようにわかる。彼らはわかりやすいからだ。さらに言うと、彼らは「俺も14歳の時に『キスしたくらいで調子に乗らないで』と言われたかった」と思っている。手に取るようにわかる。彼らは善良なふりをして一人前の欲はあるからだ。


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手に取るようにわかる、というのは実ははんぶん嘘で、単純に私が私のことを述べているだけであった。それでももう半分は本当なのは、『アリスとテレスのまぼろし工場』の爆裂な傑作ぶりを伝えるための言葉の可能性は逆説的に、人類が言葉を獲得すると同時に潰え、いまはただその輪郭を愛おしげになぞるほかないからである。

中島みゆきのエンディング曲は良かった。エンディングには米津玄師を起用しておけば丸く収まるだろう、そう考えている人たちは、自らの過ぎ来し方を見やり、ひとりずつ反省の弁を述べてほしい(この世界は本当は丸くなくて歪だということから目を背け、死んだように生きているため)。*1

*1:【追記】あまり批評めいたことを書く気分にならなかったので、註にこっそり書き足すが、劇中で描かれている季節が夏であることを「音」のみで表現できる文化圏って案外特殊だよなあと、本作を見てあらためて気づいた。昔なぜか、日本映画好きで日本語がペラペラのポーランド人と会話をする機会があったのだが、そのとき彼が言っていたことでいまだに印象に残っているのが、「日本の映画ではじめて蝉の声を聞いたとき、最初はカメラが壊れているのかと思った」ということだった。